【知道中国 2925回】                     二五・十一・仲八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅167)

フランス人修道士も活動しているが注目はベルギーで、男性司祭は同地における11年間の活動を通じ、近在住人3000人を改宗させる一方、修道女は400人収容の孤児院を経営している。ベルギー、侮る勿れ。当時はレッキとした強欲な西欧列強の仲間だったのだ。

 

やがて船は湖北省を離れ、巫山――「汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は乱れ飛ぶ」(「昭和維新の歌」)の、あの巫山である――の地で四川入りした。

 

四川で最初の街は万県だが、ここまで旅を共にした内地会のオーウェン・スティ-ヴンソンは、すでに雲南省で10年の宣教活動を続けている。「当時、万県には複数の宣教師がすでに数年間住み、この美しい家も借りることができた」。内地会には、長期に宣教活動に携わっていたと思われるトンプソンも所属していた。

 

万県を起点にした四川省の旅は専ら歩きであったようだ。主だった街を時計の針とは逆回りに進み、西端の紅橋を過ぎた辺りで鷓鴣山脈を越えチベット東部に入り馬塘で左に折れ梭磨まで。ここで反転し四川省に戻って南下し、成都、嘉定、叙州を過ぎ、最終目的地の重慶からは「烏篷」と呼ばれる小型木造船で長江を上海に向かって一気に下っている。

 

四川旅行の出発地・万県の次の保寧は内地会の一大拠点であった。英国教会伝道協会(聖公会)が主に同地の西と北の各地に病院を併設した数カ所の伝道拠点を持つ。ケンブリッジ大学出身で弁髪に中国服の出で立ちで日々を送っているキャスルズを頂点にして、大学出身者を含む約60人の宣教師が働いていた。

 

綿州の英国教会伝道協会が併設するエミリー・クレイトン記念病院は外科手術が可能であり、一連の手術は英国人医師スクウィブが差配していた。ケンブリッジ大学出身の聖公会宣教師ヘイウッド・ホーズバラは、英国の実用品を身の回りに置いていることもあってか、中国人の間で人気が高かった。

彭県には「内地会に属する三人のスコットランド人宣教師と聖公会に属する宣教師六人が一緒に住んでいた。ほとんどが女性だった」。それにしても彼女らを彭県に到らせた動機とは、はたして燃えるような信仰心なのか。それとも英国の国策に殉じようという愛国心のゆえなのか。それにしても四川省の片田舎の街に女性だけで住むとは。グレート・ゲームの秘めた峻厳さが伝わってくるようにも思える。

灌県に置かれた内地会支部を統括するグレンジャーなる人物が、どうやらイザベラ・バードの情報源のようだ。次の新繁県に置かれた聖公会を統括するのはカラムと名乗る人物だが、彼らからの佇まいからは「007ジェームス・ポンド」のニオイが伝わってくる。

四川省の省都である成都で活動する内地会は、四川省の最高権力者に庇護されていた。それもこれも内地会は省政府の最上層と太い人的パイプを構築していたからだろう。まさに蛇の道はヘビで用意周到。これぞ“英国流インテリジェンス”といったところか。

成都ではローマ・カトリック(天主教)の大きな伝道会、アメリカとカナダの伝道会、さらにプロテスタント(基督教)の宣教師の活動もみられた。

 

次の嘉定府には内地会とカナダ・メソジスト伝道会(美道会)の伝道所が設けられ、伝道の傍ら一帯の風俗・伝統文化を研究している。叙府に置かれていたのは、内地会の他にはアメリカ・バプテスト教会外国宣教会(浸礼会)で、「伝道活動と有意義な医療活動」を続けていた。瀘州では敵対的な住民を相手に、宣教師のジェームズが奮闘中だった。

イザベラ・バードが立ち寄った四川最後の大都市である重慶は、1891年には開港場となっている。じつは開港場になる9年前から商人として住み着いていた唯一の英国商人A・J・リトルは、1898年に大型蒸気船で重慶までの航行に成功したが、採算が取れずに蒸気船での定期航路経営は断念する。とはいえ、ともかくもイケイケドンドンだ。《QED》