――“もう一つの中国”への旅(旅166)
また上海には「立派な図書館[亜洲文会蔵書楼]が付設」された英国王立亜細亜学会北支支部も置かれていた。加えてローマ・カトリック(天主教)の大きな伝道会、大英聖書公会・美国聖経会・英語宗教小冊子出版界などが出張員や駐在所が、「中国人の間に純粋で役立つ西洋の書物を普及させ、中国人の精神的・道徳的向上に貢献」すると同時に、英国にとって当面の敵であるロシアとの戦いに役立ったであろうことは容易に想像できる。
そういえば宋美齢(蔣介石夫人)の父親のチャーリー宋こと宋嘉澍(元は韓教準)は宣教師の伝手で渡米し印刷術を身につけ、上海を拠点にキリスト教関連の出版で手にした莫大な資産に加え「宋家三姉妹」をテコに、孫文、蔣介石らを通じ政界で暗躍していたっけ。
上海の次に訪れた杭州は開港されたばかりだが、それまでの外国人在住者は「すべて外国人宣教師だった」。その代表格であるメイン(1881~1926 杭州在住)は、英国教会伝道協会(聖公会)の医師で、この街で18年にわたって医療活動を続けている。東洋で2本の指に入る2階建て病舎を持つ大英弘済医院(現在の浙江大学医学院附属第二病院)は1869年の創設で、スタッフは26人。ほかに中国人伝道師が3人所属し、医療を通じての伝道(医療伝道活動)に力を注ぐ。
次は「いろいろな伝道会」が伝道活動と展開する鎮江だが、ここでは英国のライバルであるドイツの進出が著しい。九口を経て漢口に向かうが、さすがに長江中流に位置する要衝であるだけに、活発な伝道活動がみられる。
同地の指導者であるダリフォス・ジョンは内陸部での伝道を主とする内地会の開拓者で、倫敦会のベテラン宣教師でもある。堪能な中国語を駆使し執筆と翻訳に励む。倫敦会は教会・施療院・病院・宣教師用住宅を持ち、同師は漢口の地に骨を埋める覚悟のようだ。
英国メソジスト派の教会(循道会・衛理公会)は、男子患者用の医療伝道会病院(普愛医院)と女子患者用の医療伝道会病院(普愛女医院)、それに施薬院、宣教師用住宅、盲学校(訓盲書院、1888年創設)などを併設する。
循道会所属伝道師で巡回伝道に熱心なデイヴィド・ヒルは「中国風の住宅に住み、中国人のように生活し、中国人のような服装をし、中国人の幸福を一途に追求」している。
漢口を発って上流の沙市に向かうが、一等船室で「四川省に戻る四人のカナダ人宣教師」と同室となった。ということは、彼らはすでに四川で宣教活動を進めていたことになる。長江を遡るに従って、宣教師の活発な活動振りが目に付く。
沙市に到着。「この辺りで使われている綿繰り機も主に日本製である。そして、安い時計、灯油ランプ、タオル、ハンカチ、蝙蝠傘、安い金物類、石鹸や、ありとあらゆる小間物そして綿製品が、この抜け目なのない帝国[日本]によって沙市に流れ込んできている」。そんな沙市では、ローマ・カトリック(天主教)伝道会に加えプロテスタント(基督教)の3つの伝道会が活動し、それぞれが施設を所有していた。
「この抜け目なのない帝国[日本]」が、1878(明治11)年に東京から北海道まで歩き日本と日本人の素晴らしさを欧米に伝えたイザベラ・バードの日本評であることを、シカと記憶しておく必要がある。自国の利害が絡めばこそ、やはりホンネを吐露するのだろう。
上
流の宜昌には「四五人ほどの外国人がいるが、そのうち、およそ二○人ほどは宣教師である」。「カトリックの大きな伝道会本部。その長であるベンジャミン司教は16年間この地位にあるが、その間、上海にさえ全く行っていない」。それほどまでに伝道活動に熱心だということだろうが、それを裏返せば現地の人心掌握と現地事情の微細なまでの探訪にもつながっているはず。どうやらベンジャミン司教は深く静かに潜行するインテリジェンスの鑑のような日々を送っていたのではないか。きっとそうに違いない。《QED》