【知道中国 957】 一三・八・念六
――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の13)
「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
北京郊外の農村視察から戻った夜、柳田は「亀田東伍氏に案内されてその旅宿を訪ねる」。
亀田は日本平和委員会常務委員で敗戦直後に日本共産党に入党している。昭和27(1952)年秋のアジア太平洋地域平和会議に出席して以来、北京に在って対日与論工作の最前線で蠢いていたわけだが、その一環が『中国の建設 ――第一次五ヶ年計画の時代――』(岩波新書 1956年)といっていいだろう。
この本で亀田は、「一般的にいって、中国共産党、各級人民政府、人民革命軍事委員会系統、大衆団体の幹部は、革命的伝統を守って、廉潔・素朴であり、誠心誠意人民に服務してきた。その、私心のなさ、廉潔さは、実に中国歴史始まって以来のものとして、深く人民の信頼を得ていた」と、まさに「道義国家」のイメージを振り撒くことに専心している。
亀田の北京滞在は中村翫衛門や金子健太と同様に事実上の政治亡命といえるが、柳田は
亀田を例に「正義の事業を守ったり、平和運動に参加したり、科学工作を行ったために迫害をうけた外国人にはすべて居留する権利を与える」共産党政権の素晴らしさを讃える。
亀田の北京滞在は長期に及んでいる。そこで「私たちのような一時的な旅客とちがって、私たちほど優遇されつづけてはいないだろうし、そんなことは事実上不可能であろうと想像し」ながら「行って見るとそれどころか実にすばらしく待遇されていた」のだ。
亀田は「北京飯店という中国一流の旅館の二階のいちばん便利なところに一室をあたえられているが、その部屋は私のとまっているホテルの室よりはズッと大きく設備もよく、しかもバス付である」そうな。ここまでは何の変哲もない記述だが、これからがイケナイ。柳田の見下げ果てたような下卑た根性が顔を出してくる。それというのも、「亀田氏は夫人を日本にのこして一人やもめぐらしであるというのに」と綴った後に、「ダブルベッドがおかれていて(かといってもちろん異性を引き入れているわけではない。今の中国にはもはや一人のパンパンもいなくなっている)洋服ダンスなどは日本の二倍もあるようなものがデンとすえつけられている」と、わざわざ括弧で注記しながら続けるからだ。
異国での「一人やもめぐらし」⇒「ダブルベッド」⇒「異性を引き入れる」と連想を逞しく巡らせる俗物性、貧困な発想、愚劣で拗けた心根もさることながら、こういった一種の“仲間の内輪話”を『我が真実への旅』などと銘打った著作に正々堂々と書き連ねる無神経さ、下劣さにはホトホト呆れ返る。やはり、文は人であり志であるということだろう。
かてて加えて柳田は「今の中国にはもはや一人のパンパンもいなくなっている」と主張する。だが、柳田訪中の1年後に中国に招かれた火野葦平が広州の一角の「暗い川っぷちにたくさんの淫売婦が出ていた。どの女にもやり手婆がくっついていて、客を引くありさまは昔とすこしも変わらなかった。相当の人数である」と、『赤い国の旅人』(朝日新聞社
昭和30年)に綴っているところからして、柳田の主張がウソであると指摘できそうだ。
柳田は「日本にいる間の亀田氏はナッパ服を着た一介の労働者だったが、今はもうりっぱな大人(たいじん)である」と持ち上げる素振りをみせながら、そうなったのは亀田の「人格と才能による点ももとよりあろうが」と断った後、「中国のふところの大きさ、その政治の一貫した正しさにもとづくものといわなければなるまい」と厭味タップリに記す。
時に「亀田氏」、時に「亀田君」と書き分けながら、「昔の亀田君ももとよりりっぱな人ではあったが、今日はほんとうのコムミュニストとしてスッカリみがかれている。真の共産主義というものはこういうものかと敬服させられる」と記し、亀田訪問記を閉じた。
現在はともあれ過去の亀田を「ナッパ服を着た一介の労働者」と見下す柳田の目線に、当時の中国礼賛者に共通する形容し難い高慢チキで下卑たエリート臭を痛感する。《QED》