【知道中国 2922回】                     二五・十一・仲四

  ――“もう一つの中国”への旅(旅165)

与えられた「権力」に則って電力は消費するも、料金支払いの「義務」は果たさず。う~ン、やはり「江山易改、本性難移(雀百まで踊り忘れず)」としか言いようはない。

この点に関する限り、「偉大的領袖毛沢東」の“教訓”はスッカリと忘れられてしまった。いや現実的には、その種の教育効果を求めることは最初からムリな相談だったようだ。というわけで、1935年時点での林語堂の“確信”を引いておくのも参考になるだろう。

「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」(『中国=文化と思想』(講談社学術文庫、1999年)

同じ本の別の場所で、林語堂は「中国が今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行なうことではなく、彼らに刑務所を準備することである」「官吏たちに廉潔を保持させる唯一の方法は、いったん不正が暴露されたならば死刑に処するぞと脅かしてやることである」とも綴る。だが中央と地方とを問わず不正に手を染めた共産党幹部の“落馬”に関する情報を内外メディアが途切れることなく報じているところからして、やはり林語堂の“諫言”も余り役には立ちそうにない。十中八九以上の確率で、おそらくこれからも。

改めて気づけばヤンゴンの観音寺からは遙かに遠く離れてしまった。だが、ヤンゴンの中華街に立ち返る前に、『中国奥地紀行』の気になる記述、それに滇緬戦争に対する日・米・中の捉え方の違いの二点を考えておきたい。

先ず『中国奥地紀行』だが、そこには彼女が行く先々の長江沿いの街で活動を続け、彼女の旅を支援したキリスト教宣教師など欧米人が数多く登場している。その代表例が、騰越の城壁の上で伊東と共に「支那帝国の前途を語り」合った「総領事リットン氏」だろう。すでに指摘しておいたように、どう考えても、リットンが領事事務のみを担当する英国外務省職員であろうはずもない。

じつはイザベラ・バードが記した中国の地方都市に暮らす欧米人宣教師の姿からは、19世紀末期の長江流域を舞台として展開されたグレート・ゲームを勝ち抜くために西欧列強が入念に仕組んだ人的インフラの仕組みと彼らの任務が滲んでくるように思えるのだ。

まず上海。旅の始まりである“魔都”には、「租界を飾る最もすぐれた装飾の一つであるし、極東における最高の教会建築でもある」「プロテスタント[基督教]の大聖堂[聖三一教会、一八六九年竣工。塔は一八九三年付設]」が聳えていた。

 

欧米各国から派遣されたプロテスタントの多くが伝道会の建物を持つが、そのうち最も重要なのは「内地会」と略称される中国内陸宣教会で、1853年に創設され、「いかにも伝道会本部らしい大きくて立派な建物」を持つ。付設の「一○○人の宣教師が住む住宅一棟や病院、財産・事業局、郵便関連施設」と共に、英国人の個人的寄贈とのことだ。

 

「欧米の伝道会組織に属さず、教派・国籍を超えた伝道を(中国の)内陸でおこなう」内地会の他に、ロンドン宣教会(倫敦会)には上海を中心に半世紀ほどの伝道経験を持つ宣教師や長期に亘って中国学の研究を続けている宣教師が所属している。

イザベラ・バードの上海着は1895年だから、英国が仕掛けた1840年勃発のアヘン戦争前後――日本では「蛮社の獄」から「天保の改革」の頃――から、彼らの伝道は始まっている。ということは書物の上ではともかく、“ナマの中国体験”に関するなら、西欧列強に較べ日本は後発だった。それにしても上海を中心にした半世紀余の伝道活動によって得られた情報は、英国の対中政策策定中枢に存分に蓄積されていたに違いない。《QED》