――“もう一つの中国”への旅(旅163)
将来的には瑞麗が「一制両国」の首都に化ける可能性だってあるし、オイシイからこそアブナイ商談もゴロゴロと転がっているはず。先手必勝とばかりに、妄想逞しく、毎夜アコギな商戦がハデに繰り広げられているだろう。「ダンナ、今夜、来てみますか。カラオケもありますよ」と声を掛けられたが、残念ながら車の出発時間になってしまった。
瑞麗の中心街を抜けると、広大な畑が延々と続く。所々に見られるのが山と詰まれた直径が1m強で長さは12m余りの鋼管である。鋼板の肉厚は2~3cm前後だろうか。近寄って見入ると、「産地 四川・資陽」「宝鶏石油鋼管有限責任公司」「中国石油装備」の文字が刻印されている。
さらに車を走らせると、道路沿いの畑の中に途切れることなく2列に並べられた鋼管が眼に飛び込んできた。鋼管は遥かに前方に霞む山嶺を越えて延々と続く。エネルギー資源をミャンマー経由で昆明に送り込むパイプ・ラインの建設現場である。もちろん2列並行の鋼管の一方の端はベンガル湾に面したチャオピュー深海港。中東の原油や天然ガスがチャオピューで陸揚げされ、ミャンマーの国土を東北方面に突っ切り、国境を越えて昆明郊外のエネルギー貯蔵・精製基地に納まり、やがて中国を駆動させるエネルギーに化ける、という仕掛けである。
改めて行き交う車の流れを見ると、鋼管を積んだトラックが目につくようになる。さらに車を進め国境とは反対側の内陸方面に向かった。車窓からは規則正しくつながれた2列の鋼管が畑中を突き進み山塊を越え、内陸部に向かって延々と伸びているのが見て取れる。
雲南西南の辺境は「辺境」の2文字でイメージされるような“最果ての地”ではない。1世紀ほど昔のグレート・ゲームにおける静かな戦場は、いまや国際エネルギー争奪戦の最前線に化けていた。
中国西南端の「離印度洋最近」の地は19世紀後半からの数十年間は大英帝国にとっての中国侵攻のための前進基地であり、第二次大戦期には連合国による蔣介石政権支援のための幹線ルートであり、対日戦争を軸にした日本打倒のための米中協力の主要舞台でもあった。ところで現在の習近平政権の立場で考えるなら、この地は中東からのエネルギー資源をマラッカ海峡を経て海路で調達する危険性――「マラッカ・ジレンマ」――を回避する可能性を秘めている。ここら辺りが地続きの強みというものだろう。まさに現代版の援蔣ルート、いや、この場合は援習(近平)ルートと呼ぶべきかもしれない。
共産党政権成立前後以降を考えてみると、一帯は国共内戦末期には国共両軍激突の戦場でもあったし、蔣介石政権が台湾に落ち延びた後は国民党軍残存部隊の哀しいばかりの生存拠点でもあった。文革期になると、文革派によって強引に推し進められた「上山下郷運動(下放運動)」の重要拠点の1つともなった。この運動が掲げる「貧農下層中農から再教育を受けよ」の掛け声に煽られた多くの都市の知識青年(=紅衛兵)は勇躍として移り住むも、結果的に悲惨・苛酷な生活を強いられた“恨みの土地”でしかなかった。
やがて文革末期になると、酷評するなら元紅衛兵の“掃き溜め”と化す一方、「緬共」で通称されるビルマ共産党の根拠地となり、現在ではミャンマー中央政府に敵対する幾つかの少数民族政権が支配する“疑似国家”の版図が錯綜する地域であり、さらには最新通信技術を駆使する中国の犯罪集団(黒社会)の巣窟――といっても、実態は高層ビルが林立する近代都市――でもある。
「漢族の熱帯への進軍」と共に黒社会も進軍する。習近平政権が強引に突き進む影響力の南方への拡大路線と共に、黒社会の影響力も確実に浸透している。「離印度洋最近」の地は、いまや黒社会と東南アジア大陸部を結ぶ“犯罪回廊”でもあるのだ。《QED》