【知道中国 2917回】                     二五・十一・初六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅160)

 大黒河島国際貿易大厦に入る。日用雑貨、おもちゃ、衣料、ニセCD、コンピューター、家電製品、バイク、はてはブルドーザーなどの大型建設機材まで、まさに生鮮食料品以外のありとあらゆる中国商品が展示・販売されているのだが、閑散としている。昼間だというのに店仕舞い状態の店舗が珍しくない。それでも裏手に回ると、バイク店で店員とロシア人客とが中国語混じりのロシア語を使って大声で商談中だった。

 

駐車場の端から道路を越えると、そこが黒龍江の川岸である。水辺まで歩き手を入れてみると冷たい。それもそのはず。数メートル先はまだ分厚い氷が張っていて、それが向こう岸まで続いているのである。

もうすぐ5月だというのに、約750メートルの川幅の大部分は凍ったまま。対岸に見えるのがアムール州の州都で極東ロシア第3の都市であるブラゴヴェシチェンスクだ。人口は20万人強とか。20数校の大学を持つ学園都市でもあり、黒河側の裕福な家庭の子女のなかには黒龍江を越えて留学する者もいると説明された。

中ソ論争がエスカレートし、双方が国境線に沿って大部隊を動員して4300キロに及ぶ長い国境線で緊張を高め合っていた時期、ことに中ソ双方が数10万規模の大兵力を展開してダマンスキー島(珍宝島)において激しい武力衝突を繰り返し、一時は全面戦争まで囁かれていた1969年3月前後には、この一帯も極度に緊張していたことだろう。

ところが、である。1982年、中国政府は固く閉ざしていた黒河の口岸(国境関門)を北に向かって積極的に開放し、対ソ国境交易再開に踏み切る。遥か南方の香港に接する深圳で鄧小平が「南巡講和」をブチ上げ、天安門事件で頓挫しかけた改革・開放路線を再始動させた1992年、北の果ての黒河が国家級の「辺境経済合作区」に格上げされたことから、ロシア相手の経済交流と輸出工業の中心都市へと変貌を遂げることになる。

かくて黒河市と対岸のブラゴヴェシチェンスク市は中ロ辺境貿易の重要拠点の1つとなったわけだ。双方の間を隔てるのは、最短部分でわずか750メートルばかりの黒龍江の流れでしかない。となると、双方を橋で結んでしまおうとする野心的なプランが浮かんだとしても決して不思議ではない。           

厚い氷の張る時節はホバークラフトで、氷が溶けたら船舶で結ばれる黒河と対岸のブラゴヴェシチェンスクの関係を、中国側は「中ロ双子城」――中国とロシアの双子の街――と呼ぶ。だから「中ロ双子城」という表現は、いずれ2つの都市をセットにしてしまえという構想にも繋がるだろう。なんせ彼らは利に敏く、時にセッカチが過ぎる。利を前にしたら、「無原則」という大原則が唸りを上げて動き出すのは、やはり致し方のないことだ。

中ロ国境線の長さは全体で4300キロ。黒龍江省が抱える3000キロほどの国境線には、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ類と交易規模に応じていくつかの口岸」がある。最大級のⅠ類は2都市で、黒河に加え、黒龍江省の東端に位置する綏芬河で、そこは極東ロシアの要衝で知られるウラジオストックとナホトカに近い。

1992年、中国政府は黒河を辺境経済合作区に指定する一方で、綏芬河を中国最初の沿辺開放都市と位置づけた。ここで時計の針を少し戻すと、黒龍江省政府は1988年に綏芬河を通貿興辺試験区としている。ここから、黒龍江東端を東に向かって開きウラジオストックとナホトカを経由し、日本、韓国、アメリカなどと結んで辺境を対外交易の最前線に変貌させようとする“遠大な狙い”が顔を覗かせる。

ここでまたまた歴史を振り返るなら、帝政ロシアが建設した壮大な巨大鉄道網(シベリア鉄道/東清鉄道/中東鉄道)もまた東方に向かって帝国の影響力を拡大しようと狙ったわけだから、人間という生き物は所詮は同じようなことを考えるのだろう。《QED》