【知道中国 2916回】                     二五・十一・初四

  ――“もう一つの中国”への旅(旅159)

国境を挟んで接する両都市を1つの経済単位とする構想は取り立てて目新しいものでもない。じつは1990年代初期から、遥か北辺の黒龍江省、その東北端の綏芬河市と国境を挟んで21キロ離れたロシア側のポクラ二ーチナヤとを結びつけた経済共同区――当初は「中露互市貿易区」。2002年2月に「綏・ポ貿易綜合体」――の建設が試みられた。

2010年の旧満洲旅行の道すがら黒龍江省黒河を歩いたが、この街もまた国境の黒龍江(アムール川)を挟んだ対岸のブラコヴェンチェンスクとは、綏芬河市とポクラ二ーチナヤ、瑞麗とムセーの関係と同じような地理的条件にある。いいかえるなら中国の西南端一帯が「中国 離印度洋最近的城市」であるなら、黒龍江省の北縁に位置する綏芬河や黒河は「中国 離西比利亜最近的城市」と言い表してもなんらの不都合はない。

 

というわけで時空を飛び越え、寄り道に寄り道を重ね、2010年春の黒河周辺散策の旅を振り返りながら、国境を挟んで地続きでつながる経済開発の姿を改めて考えるのも一興だろう。以下、2010年の旧満洲旅行体験記の一部(388回~412回)を下敷きに綴ってみた。

満州国時代、この街には黒河省の省公署が置かれ、黒河駅から黒龍江までの中心街には満鉄病院、日本人学校、璦琿警察本隊、梅園書店、国際運輸、ときわ旅館、食堂の一彦、松屋旅館、カフェーの丸よし、芸者置き屋の美の屋、ロシア料理の東洲飯店などが軒を並べ、街外れには黒河神社もあったというから、まさに日本そのもの。もちろん国境の街だけに、侵入するソ連スパイなど敵性分子摘発のための満州国警察特務科アジトも。

昭和20年8月9日14時00分、黒河省公署は同省警務庁に対し、「極東ソ連軍越境侵入開始し、日ソ開戦となる。当面、黒河街がソ連軍による激しい攻撃対象とされており、公署付近も炎上中。直ちに戦闘警備体制に入られたし」との緊急指示を発し、次いで15時00分、村井矢之助黒河省省長は管下の各県副知事に対し「本日、日ソ開戦に入れり。余はこれより孫呉に赴く。貴下並びに職員一同の武運長久を祈る」との指示を下した。

この街で、いったいどのような戦闘があったのかは不明だし、当時の面影は片鱗も感じられない。街中が建設ラッシュの真っ盛りで道路は掘り返され、ぬかるみが続く。軒を連ねる老朽家屋の壁という壁には丸に「折」の文字が記され、解体を待っている。ならば満洲時代を偲ばせるような建物が、通りすがりの旅行者の目で捉えられるわけがない。

目にする看板の漢字の隣には、必ずといっていいほどにロシア文字が記されていた。さすがに対ロ国境貿易最前線の街である。

そんな街で先ず気になったのが「俄羅斯(ロシア)商品街」のアーケードだった。

ここでは並木道に広い歩道が続き、ブーツを履いたロシア女性も目に付く。「韓国現代 世界500強 黒河市専売」の看板を掲げた家電量販店に加え、サテ、どんな商品を売っているのか皆目不明だが、「韓国商品」の看板――もちろん漢字に並んでロシア文字が記されている――を掲げた商店も少なくない。韓国は、ここまでも進出しているのだ。

黒龍江沿いの道を下流に向かって暫く進み橋を越えると、そこが黒龍江にせり出たような中洲の大黒河島。大黒河島国際貿易と中俄自由貿易城と名づけられた2つの新しくて巨大なショッピング・モールがあり、そこの高い外壁の上から下げられた「協進中俄辺民互市貿易繁栄発展(中ロ辺境人民の交易を共に繁栄・発展させよう)」「構建中俄商品交易批発集散大中心(中ロ商品交易卸売・集散大センターを作りあげよう)」などのスローガンが、イヤでも目についてしまう。

巨大な大黒河島国際貿易の裏手に回ると、駐車場を挟んで黒龍江の流れを背にして大きな口岸(出入国管理・税関)事務所ビルが置かれている。さすがに辺境貿易基地を名乗るだけあって、そこにもここにも国境の街の雰囲気が漂っていた。《QED》