――“もう一つの中国”への旅(旅158)
関門前の広場の周りには宝石などを売る土産物屋が軒を連ねている。ある店先に「320国道終点」と「三龍匯瑞」の2つの看板が立て掛けられていた。後者は4文字を挟むように右側に「印支那九洲通達 滬史滇三龍匯瑞」、左側に「上海・滇緬・史迪威」の文字だ。上海が起点の320号国道の終点が瑞麗だから「320国道終点」は判るが、「三龍匯瑞」は何を指すのか。「滬」は上海だから320号国道で、「滇」は滇緬公路。ならば「史」は。
しばらく考えてハタと気づいた。「史」はインド東部のレドを起点とするレド公路。中国語では中印公路と呼び、戦争当時この地域の司令官だった米軍のJ・スティウェル将軍に因んで45年に蔣介石が提案してスティウェル公路(漢字で史迪威公路と表記)と改名された援蔣ルートを指す。つまり3匹の龍に喩えられた320号国道、滇緬公路、史迪威公路の3本の幹線道路がインドシナと九洲(ちゅごく)を結んで四通八達し、瑞麗で合流すると表現したいに違いない。
たしかに「史(迪威公路)」はインドと、「滇(緬公路)」はミャンマーと、共に中国を結ぶが、インドシナは関係ないだろうに。まさかミャンマーはインドシナには入るまい。だとするなら支那九洲の4文字を合わせて「ちゅうごく」といいたいのか。ともあれ、こうみると「支那」の2文字は、雲南省西南の一帯ではタブーではないことになる。
瑞麗の裏通りを歩いてみた。
ミャンマーで何回か目にしたピンクの衣装の尼僧の集団がミャンマー語で楽しそうに喋りながら、前方から歩いて来る。そこで唯一知っているミャンマー語で「ミンガラバー」と挨拶する。一瞬、ホンワカとミャンマーの風が吹いたようだ。
改めて周囲を見回す。バイク、携帯電話、家電製品、家庭用日用雑貨、陶磁器、金物、美容院、結婚式衣裳、薬、乗用車、トラック、建設機材、ブルドーザー、衣料、太陽光発電パネル、パソコンなどを扱う店が軒を連ねているが、どの店舗も看板は漢字にミャンマーの文字で記されている。
角を曲がった通りは、ミャンマー語のみ。店員も客も行き交う人も、ミャンマーの一般的衣裳である腰巻風のロンジー姿が目立つ。一瞬、中国の街ではないような錯覚に陥る。だが太陽光発電パネル屋の壁をみて、やはりここは中国であることを知る。そこには徳宏州公安局の公開指名手配書が張られていたからだ。
新聞紙見開き2頁大で、3人の女性を含む28人の犯人の顔写真と身体的特徴に加え、殺人、詐欺、美人局などの容疑内容が記されている。確たる情報提供者への報奨金は最高額の1万元が2人で、以下は5000元、2000元と続き最低は1000元だ。店先で食後の一休みをしていた店員に訊ねると、「ミャンマーの少数民族地区に逃げ込んだずだから、捕まるわけはない。俺の月給は1500元だから、報奨金の1万元はタマラナイなあ」と返ってきた。「ここでは店頭や電柱に『高薪 招翻訳(高給与 翻訳者求む)』の求人ビラがたくさん貼られているが」と話を向けると、ミャンマーとの商売を考え、どの店でも老板(おやじ)がミャンマー語のできる店員を掻き集めておこうという魂胆だ、とのこと。
どうやら将来的には、国境関門を挟んだ中国側の瑞麗とミャンマー側のムセーを一体化し、一帯を国境を跨いだ1つの経済圏として統べようとする目論見らしい。香港やマカオとの関係が「一国両制」なら、さしずめ「一制両国」とも思えるのだが。《QED》