【知道中国 2913回】                        二五・十・卅

  ――“もう一つの中国”への旅(旅157)

22輌の四駆の車列は保山から龍陵、芒市を経て畹町に。全行程36日とか。もっとも大部分は往時の滇緬公路ではなく、上海と瑞麗を結ぶ高速国道320号線を走行しただろう。盧溝橋事件が勃発した7月7日には昆明で記念集会を開き、南僑機工による抗日運動への貢献を讃えて気勢を挙げたらしい。

この活動への最大のスポンサーは、マレーシアで海鴎集団なる企業集団の総裁を務める陳凱希。マレーシアと中国との友好を掲げる馬中友好協会の秘書長だそうだが、どうやら背後には共産党の教育・宣伝中枢である中共中央宣伝部(中宣)と雲南省政府が控えていたと考えて強ち間違いでもないはずだ。

日本人からするなら南僑機工などに思いは及ばず、眼中にない。援蔣ルートも滇緬公路も、ましてや騰越・拉孟・龍陵と広がる戦場においての我が先人兵士の死戦も玉砕も民族の記憶から薄れ、いや正直なところでは完全に風化し、哀しいまでに跡形もなく消え去ってしまっている。「もう一つのガダルカナル」「陸のガダルカナル」などと哀惜の情で言い表してみても、10中人8、9人以上の割合で気にも留めないだろう。バチ当たりの極み。

だが“民族の怨念や敵愾心”に火を点けるべく南僑機工の歴史が掘り起こされ、東南アジア華人青年を動員した反日運動が滇緬公路を舞台に繰り返される。反日の“物語”が認知戦の強力な武器であることに気づこうともしないのは、やはり日本人ばかりではないか。

以上が、「中国離印度洋最近的」で形容される滇西地方が秘めた地政学の一端である。そこで次に別の角度から「中国離印度洋最近的城市」の1つで、大きな国境関門のある瑞麗の街に歩を進めてみたい。

瑞麗の街に入る手前で眼に入ってきたのは、巨大な看板。ともかくもメッタヤタラに巨大な看板が立ち並ぶ。それにしても不思議なのが白い紙に墨痕鮮やかに記された漢字は惚れ惚れするように芸術的だが、街の看板の金文字なんぞで記された漢字は、それが見事の筆跡であればあるほどに醜悪に見えるのだが、ハテ、屈折した偏見(!)だろうか。

閑話休題。

「中国第一家境内関外辺貿市場 新特区・新市場」と大きな文字の下に、「出口百貨区・電器電子区・針紡織品区・五金機電区・摩配汽配区・洋貨名牌区・外貿服飾区等」とやや小ぶりの文字が並び業務内容が記されている。文字から判断すれば、中国国内に最初に設けられた国際商業特区ということだろう。広大な敷地に輸出百貨、電器・電子、紡織繊維、金物・機械、自動車・バイク部品、海外高級ブランド品、外国服飾品など扱う商品別に専門区域を設定し、内外の輸出入業者を集め、辺境での取引を一括管理しようという魂胆らしい。

看板後方に広がるのが中国第一家境内関外辺貿市場。新築店舗が延々と軒を並べている。第一印象では営業をしている店舗は少なそうだ。いずれ業者がワンサカと集まり商売繁盛間違いなしと、地元政府幹部は不動産業者と共にソロバンを弾いているに違いない。取らぬ狸の皮算用。それとも秘かに不動産業者と手を組んだ公財私用(ヒトのモノはオレのモノ)式の権力濫用商法か。掃いて捨てても、「越後屋」は雨後の竹の子のように次々に生まれてくる。野蛮強欲市場経済なればこそ。ヤッチャ場経済の必然の帰結だろう。

やがて歩道には椰子の木が植えられ、ミャンマーやタイの伝統様式を摸した建物も目立つ、どこか南国風の瑞麗の中心街の広場に入った。すると正面にミャンマーの寺院風の巨大な建物がドッカと身構えている。反り返った屋根の下には大文字で「中華人民共和国瑞麗東口岸」と。両国の接点である国境関門だ。畹町の関門がなんの変哲もない小さな橋でしかなかっただけに、国境交流における瑞麗の重みがヒシヒシと感じられる。《QED》