――“もう一つの中国”への旅(旅156)
国共内戦では毛沢東率いる共産党を支持したことから、陳嘉庚は海外の「愛国華僑」の代表として1949年の建国を迎えた。翌1950年にシンガポールに戻ったものの、英国籍を失い国外退去処分を受けた。かくて生まれ故郷に近い福建省の廈門に居を定め、マレー半島各地でのゴム園や新聞経営で蓄えてあった莫大な財産をインフラ整備や教育事業に投じた。見方を換えれば毛沢東に対し必死にゴマを擦ったわけだが、毛沢東が強行し4000万人以上を餓死させたといわれる大躍進運動の渦中で人生を終えている。
死に臨んで、彼は孫文に革命資金を提供し、毛沢東を支持した自らの政治的決断の誤りを悔やんだことだろうか。もっとも“死に時”だけは間違えなかった。かりに文革の時代まで生きていたら、紅衛兵という毛沢東原理主義の若者たちの手で嬲り殺しにされていたはずだ。それというのも彼は、紅衛兵にとっては不倶戴天の怨敵である資本家だったから。
栄光と悲惨が交錯した陳嘉庚の波瀾万丈の後半生が、共産党得意の統一戦線工作の“不都合な真実”を物語っている。利用できなくなったらポイ捨て、ということだ。
小雨が降り始めた畹町の表通りを小走りで駆け抜け、路地の先に店を構える新華書店(支店)に飛び込み10冊ほど本を買う。ちょうど昼時で食事中だったが、珍しいことに店員は食事を中断し、嫌な顔もせずに応対してくれた。
ふと前方を見ると、店の前に広場があり、正面の壁には4~5m×30mほどの巨大な写真が貼られている。毛沢東を真ん中に右に朱徳、劉少奇、周恩来、陳雲、陳毅、毛の左には民族衣装を着た独立ビルマ初代指導者のウ・ヌー首相夫妻と思しき人物、その左に同じく民族衣装の3人の男性が立つ。中国側は全員がお揃いの人民服だ。
写真上部に大きく「中緬建交六十周年 充分発揮畹町橋梁紐帯作用(中国・ビルマ国交樹立60周年 両国を結ぶ畹町の橋梁紐帯作用を充分に発揮させよう)」と。1949年の建国直後の両国の国交を結んだ功労者となるのだろうが、偽造写真の可能性も考えられる。
公園を後に、買い込んだ本の包みを小脇に抱え小雨の止みかけた表通りを歩くと、大部分は目下建設中の店舗。程なく宝石の土産物屋として店開きし、各地からやって来る観光客相手にニセモノ、紛い物を売りつけることになるだろう。これもまた「政経合一」が“売り”の管理体制を布く「畹町経済開発区」の現在の姿だ。
畹町を離れ次の目的地である瑞麗に向かう。途中で昼食時間となり、道路沿いの小型体育館のようなレストランに立ち寄る。三方に壁はなく風が吹き抜けて心地いい。残る一方には4~5m×15mほどの真っ赤な幕が引かれている。幕の左端は南僑機工の生みの親と讃えられる陳嘉庚の等身大よりやや大きな全身写真で、右端は滇緬公路の路線図。ど真ん中に大きく左から右に「“重走南僑抗日滇緬路萬裏行進”活動 歡迎宴會 中共徳宏州委人民政府」と記されている。「南僑の抗日滇緬路を重(たず)ね走(ある)く万裏の行進”活動」を徳宏州の共産党委員会と人民政府とが宴席を設けて歓待したのだろう。
「里」と書くべきところを「裏」としているところがゴ愛嬌だ。どっちも「li」の音だから間違ってしまったということだろうが、そこがなんともマが抜けていてオカシイ。
じつは2011年6月、マレーシア、シンガポール、中国などから集まった80人ほどが22輌の四輪駆動車を駆り、南僑機工に縁の深いシンガポール怡和軒倶楽部を出発しマレーシア、タイ、ラオスを経て雲南入りし、昆明から滇緬公路を西に向かっている。《QED》