【知道中国 2911回】                      二五・十・念六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅155)

趙紫陽は前者の上海に重点を置く考えに傾き、李鵬は後者の国境の南側に広がる東南アジアに向かって開け放つ戦略の側に立った。天安門事件によって趙紫陽が失脚したことで、李鵬の考えが大勢を占めることとなる。90年代に入り、李鵬が「西南各省走向東南亜(西南各省は東南アジアに向かって歩を進めよ!)」と号令を掛けたことから、滇西と東南アジア大陸部を結びつけ、熱帯への進軍という漢族の歴史が再び回り始める。

かくして国境を越えた滇西西南開発の方向が打ち出されるわけだが、江沢民政権時代になると減速してしまう。ところが胡錦濤が政権の独自色をみせるようになった2005年前後から、高速道路や空港といったインフラ建設、大型不動産開発、遺跡の整備などの多くが本格化する。かくして「40数名の党と国家の指導者」が滇西開発にとっての“恩人”と位置づけられるのであった。一連の動きを日本風に形容するなら、「地方創生」を背景にした中央政界最上層における権力闘争の反映、といったところだろうか。

やがて習近平政権の長期化・強権化に伴って、熱帯への進軍は速度を増すことになる。

最後に考えてくべきが「畹町橋は炎黄子孫を救おうという歴史的重責を担った。3200人の南僑機工が、帰国し参戦した」という記述である。

1939年、抗日戦争の戦場に赴くべく北上した「南僑機工」の目の前にあったのが、畹町橋だった。そして彼らは、その橋を渡って北上し、抗日戦線に参戦していったのである。

南僑機工とは自動車の運転や修理技術を持った東南アジア各地の華僑青年を指す。彼らは1939年夏、歓呼の声に送られシンガポールの怡和軒倶楽部を出発し、南ヴェトナムのサイゴン(現ホーチミン)を経て汽車と徒歩で国境にたどり着き、畹町橋を渡る。

当時の日本側の動きを追っておくと、昭和13(1938)年1月10日の御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定され、16日には近衛首相が「国民政府相手にせず」と声明。国家総動員法公布1週間後の4月7日、大本営が徐州攻略作戦を許可する。

以後、厦門(5月10日)、徐州(5月19日)、広州(10月21日)、武漢三鎮(10月27日)と日本軍は中国南部の要衝を次々に攻め落とす。連戦連勝。破竹の勢いだった。

蔣介石が逃げ込んだ重慶への空からの猛爆は12月からはじまるが、その直前に援蔣ルートが完成している。

昭和14(1939)年には5月に勃発したノモンハン事件でソ連軍と戦いながらも、中国南方戦線において日本軍は進撃を続ける。援蔣ルートに関連した動きをみると、11月にフランスに、昭和15(1940)年6月にイギリスに、日本政府は援蒋行為の中止を要求している。7月にはイギリスは日本の要求に応じ、援蒋ルート閉鎖の方針を打ち出した。

ところがアメリカが対日攻勢に転ずるや、それまでの融和策を捨て、イギリスは援蒋ルートの再開を宣言する。さらに1年が過ぎた昭和16(1941)年になるとアメリカの対中援助は急拡大し、満州事変以来の日中戦争は、中国西南を戦場とする日米戦争へと様相を一変させ、ついに12月8日の真珠湾攻撃へと突き進んでいったわけだ。

1939年9月から日本軍がビルマ全域を制圧した1942(昭和17)年5月までの間に、南僑機工が滇緬公路を使って運んだ物資は一説では45万トン超とも伝えられる。3200人のうち3分の1強が滇緬公路に斃れ、1000人ほどが東南アジアに戻っていった。中国に残った100余人は国共内戦の時代を越え、雲南、四川、海南島で苛酷な日々を生き抜く。それというのも、共産党政権は彼らを“厄介モノ”としてしか扱わなかったからだ。

それから40年ほどが過ぎた1980年代になると、彼らの愛国・救国活動を検証し、その事績を歴史に留めようとする元南僑機工やその子や孫によって「南僑抗日機工雲南聯誼会」(現在は「雲南南僑曁眷属聯誼会」)が雲南で組織されることとなる。《QED》