【知道中国 2908回】                      二五・十・念二

  ――“もう一つの中国”への旅(旅154)

■友誼=「1950年4月29日、中国人民解放軍は五星紅旗を畹町に掲げ雲南全域の解放を宣言し」、「56年12月15日、敬愛する周恩来首相とバー・スエ首相が手を携えて橋を渡り、芒市で開催された中緬辺民聯歓(中国ビルマ辺境住民聯誼友好)大会に参加し、両国友好の新しい時代を切り開いた」

■改革開放初期=「畹町は辺境貿易の先駆けとなり、両国辺境の開発を促す。胡耀邦、万里、喬石、胡錦濤、李瑞環、李鵬、朱鎔基、呉邦国ら40数名の党と国家の指導者が視察したこの橋は、過去と未来を結び、中国の内と外を繋ぐ」

なんとも身勝手極まりなく突っ込みドコロが満載のヘリクツと言うしかなさそうだが、取り急ぎ気づいた点を2つ、3つ挙げておくことにする。

第1が、「1945年1月20日、中国軍は日本軍を国門の畹町から追い出した」と「1950年4月29日、中国人民解放軍は五星紅旗を畹町に掲げ雲南全域の解放を宣言した」の2カ所。ここでも、このまま予備知識抜きでソノママ読んでしまえば、抗日戦争に勝利した中国軍は中国人民解放軍ということになりかねない。改めて「日本軍を国門の畹町から追い出した」「中国軍」は米式重慶軍であり、断じて人民解放軍ではないということを確認しておくべきだろう。見事に仕組まれた政治宣伝であり、敢えて誤解を誘う巧妙な表現と言っておきたい。この手のカラクリ――洗脳に関する高度な技術――にコロッと騙されてしまうから恐ろしい。いや騙されているのに騙されたとは思わないのだから始末が悪い。

「雲南全域の解放」だが、これは国共内戦に敗れた国民党軍が国境の南に敗走したことを指す。やがて彼らはタイ・ラオス・ミャンマーの国境が重なる黄金三角(ゴールデン・トライアングル)に落ち延び、台湾に逃れた国民党政権と連絡を取りつつ、タイにおける合法的居住権と引き換えに1970年代後半に東北タイで過激なゲリラ活動を展開した北京系タイ共産党ゲリラとの戦いに参戦することになる。

「彼らはタイの特殊部隊などとは較べものにならないほどに勇敢で強く、まるで猛禽のように共産党ゲリラに挑んでいった。さほどまでに合法的居住権が欲しかったのだろう。故郷を追われた兵士たちの悲しい物語・・・だが、オレの狙いはドンピシャだった」とは、この作戦をタイ国軍最高司令官として指揮し、後に首相(1977~79年)になったクリアンサク大将から、バーンケンの私邸で自慢の手料理をご馳走になりながら聞いた国共内戦の後日談となる。

その後、台湾からの支援は民進党政権が誕生するや先細り、国民党の政権奪還に伴い復活するなど、“中華民国の政治”に翻弄される。いま彼らの子孫は北タイの山中に“もう一つの中国”を営む。心ならずも異土で人生を終えた彼らは「入土為安(故郷の土に返る日)」を待っているかのように、遠い故郷の雲南の山々が望めそうな地に葬られている。

次に「胡耀邦、万里、喬石、胡錦濤、李瑞環、李鵬、朱鎔基、呉邦国ら40数名の党と国家の指導者」の部分である。なぜ趙紫陽と江沢民の名が記されていないのだろうか。趙紫陽は天安門事件を機に詰め腹を切らされたわけだから致し方ないとして、江沢民名前が記されてはいないのはなぜなのか。ここに記された「40数名の党と国家の指導者」と趙紫陽、江沢民の違いを探してみると、開発戦略に違いに行き着くように思える。

1980年代半ば以降、雲南を中心とする西南の極貧地域の経済社会開発に関し、共産党指導部に2つの考えが生まれた。趙紫陽と江沢民は「上海を中心とする長江下流域と結べ。西南地域を源流とする長江を物流幹線とし、豊富な天然資源を先進工業地帯に流せ」と主張し、「40数名の党と国家の指導者」は「国境を東南アジアに向かって開放し、インド東部からヴェトナムまでの広大な市場に結びつけよ」と説いたのであった。《QED》