――“もう一つの中国”への旅(旅153)
旧イギリス領事館が高級レストランに改装される可能性は高い。そうなったらなったで、外壁全体に認められる無数の弾痕は抗日戦争の“勲章”となることだろう。
抗日戦争当時、この地域と国境の向こう側に広がる“もう一つの中国”を繋ぐ戦略的要衝であり、古くから一帯に住む少数民族のタイ族のことばで「太陽が最も高い所」を意味する畹町での体験を綴っておくのも、この一帯の地政学――まさに「中国 離印度洋最近的城市」――に関する基礎知識を知ることにもつながるだろうと考えた。そこで、この地域を、これまでとは違った視点から捉えてみたい。
古くからの国境関門が置かれている畹町の街外れには、新旧2本の橋が架かっていた。中国側を背にしてミャンマー側に向いて立つと、左手がコンクリート製の九谷橋で、右が鉄骨に板を敷いただけの畹町橋。共に長さは20m強。巾は中央分離帯のある九谷橋が15mほどで畹町橋は5m前後。10数mほど下を流れる細い畹町河が中国とミャンマーを限っている。畹町橋の真ん中に「中緬国界請勿跨越(両国国境、越えるな)」と書かれた標識があり、その下にチェーンが張られていた。ミャンマー側の橋の袂に置かれた小屋は国境警備兵の詰め所だろう。その周囲には軽トラックとバイクが数台並ぶ。
「中緬国界請勿跨越」と書かれた標識まで進みミャンマー側を眺めると、目立つ場所にある建物の大きな壁に「カネ儲け確実、店舗物件、販売開始」といったキャッチコピーが書かれた不動産広告が目に飛び込む。国境の街まで不動産開発ブームは押し寄せていた。
この橋を越えて南下すればミャンマー東北の要衝であるラシオ(漢字で臘戌と表記)を経て、英国殖民地時代の避暑地であり、日本軍司令部のあったメーミョー(眉謬)を過ぎ、ミャンマー中部に位置する100万都市で、中国人の街と化しつつあるマンダレー(曼徳勒、また和は瓦城)へと続く。なおマンダレー、メーミョー、ラシオに関しては後に詳述予定。
じつは「太陽が最も高い所」は「東南アジアにいちばん近い国境関門」でもあるわけだ。街のカンバンはタイで使われているタイ語(文字)表記が目立つところから判断して、タイからの観光客が多いと考えられる。
橋の袂の左側には出入国を管理する中国側の入境辺防検査処があり、右側には宝石の土産物屋が軒を連ねる。2つの橋の中国側の袂に横7、8mで縦が3mほどの大きな看板が立つ。中国側には胡錦濤を中心に地方政府幹部らしい人々が写っている。たぶん、この地域を視察する胡に向かって地方幹部が“ご進講”した際の写真だろう。「この地域の開発に、中央政府はかくも心を砕いているのだ!」との姿勢を前面に打ち出すことを狙う胡錦濤政権からの強いメッセージに違いない。
裏側、つまりミャンマー側は訪中したミャンマーのテイン・セイン大統領と胡が固く握手している写真だ。照明装置が付いているところをみると、夜間はミャンマー側からは握手する両国首脳のライト・アップされた姿が見える仕掛けだ。両国友好を盛り上げようというのだろうが、ミャンマー側に人家らしきは僅かしかみえない。ならばライト・アップされても、大きな効果は期待できないだろうに。
畹町橋の袂に置かれた「畹町橋簡介」では、この橋を「抗戦名橋」「友誼名橋」「商貿名橋」と表現しているが、この辺りから共産党政権の意図がチラホラと目につくようになる。
そこで「畹町橋簡介」を読んでみると、
■抗戦=中日戦争当時、この畹町橋を経由して大量の物資が「我が国における抗日の前線に運ばれ」た。当ルートは「我が国の抗戦における唯一の『輸送管』となり」、「『3カ月で中国を滅亡させる』と豪語していた日本軍の夢想を打ち砕く」。その結果、「1945年1月20日、中国軍は日本軍を国門の畹町から追い出した」のである。《QED》