【知道中国 2906回】                      二五・十・仲八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅152)

伊東の旅から4年ほど後の1911年に勃発した武昌蜂起が引き金となり清朝は崩壊し、アジア初の立憲共和政体の中華民国が建国される。それから33年が過ぎた1944(昭和19)年、この街において日本軍は壊滅的打撃を被る。散華というには、あまりにも哀しい。

中国では城は城壁を指し、城壁の内側で市(あきない)を営むので都市は城市と呼ばれる。伊東の記す「騰越の城は囲六里、人口九千」に拠れば、当時の騰越は東西南北四辺を合わせて「六里」の城壁の内側に「九千人」が住み、商売に励んでいたことになる。

もちろん「六里」の城壁が、そのまま現存しているわけではない。多くの中国の都市と同じように、農村からの人口を呑み込み拡大する街並み、多様化する交通手段、モータリゼーション――近代化の荒波に直撃されたうえに都市再開発という暴利を産み出す暴風を前にして、為すすべもなく打ち壊され消え去るしかなかった。

この街をブラついたのは2012年だが、すでに旧い城壁は見当たらない。だが、かつて西側城壁の中央部に穿たれていた城門の外側の脇に英国領事館は残っていた。伊東が訪ねた当時の建物かどうかは不明だが、その前に建つ真鍮製の銘板には「雲南省重点文物保護単位 英国領事館 雲南省政府 二〇〇三年十二月十八日」と刻字されていた。

英国領事館はこの地方特産の石造りで重厚な建物に見えたが、近寄ると石の壁には大小無数のデコボコが認められる。銃弾が当たって砕けた弾痕だ。昭和19年夏の滇西戦線における死戦の末に拉孟、龍陵を放棄せざるをえなかった日本軍が最後の最後まで守ろうとした騰越の戦闘の凄まじさが改めて伝わってくる。

この街で戦った古山高麗雄は昭和19年の夏を『断作戦』(文春文庫 2005年)に綴る。

――「城外の警戒陣地をすべて失って、戦場は、城壁戦に変わった。騰越城はじかに遠征軍に包囲されたのだ」。「友軍は、残されたわずかな兵員を減らすばかりであった。守備隊の塹壕は、火焔放射器で焼き払われ、兵士たちは、火だるまになり、そして黒焦げになって死んで行った」。「騰越城の守備隊は、二千数百名の将兵が、落城の九月十四日には、六十人ぐらいに減り、その六十人ぐらいも、落城の後、ほとんどが死んで行ったのである」。「脱出部隊は、林の中を、東北の方角に進んで行った。脱出部隊は、師団司令部のある芒市まで敵中を潜行してたどり着き、騰越守備隊の最期の状況を報告せよ、といわれたのである。しかし、芒市までたどり着けた者はついにいなかったのである」――

日本軍守備隊に壊滅的打撃を与えたのは米式最新装備で固めた米式重慶軍であり、遠征軍と呼ばれた部隊は蔣介石麾下の国民党軍であり、断じて共産党軍ではない。この点は厳然たる事実として、シカと記憶しておくべきだ。これが歴史戦を戦う最低限の作法だろう。

その遠征軍だが、総数は4万とも6万とも。これに対し、城壁を盾に戦った日本軍はわずかに「二千数百名の将兵」である。多勢に無勢を遙かに超えた哀しいまでの劣勢にもかかわらず勇戦・奮戦・力闘した我が先人が立ち向かった敵とは、いったい何であったのだ。

たしかに目前の敵は雲霞の如く押し寄せる米式最新装備の国民党軍だったろう。だが真の敵は兵士の背後の蔣介石政権、その背後の米軍、さらにその背後のワシントンを拠点とするアメリカ指導層だったと考えたい。アメリカ式価値観で色鮮やかに粉飾された民主主義をテコにした戦後の世界秩序を構想する彼らにとって、標的は日本だったはずだ。

閑話休題

改めてイギリス領事館を眺めると全面改装工事中だった。近い将来、昔日の勇姿を蘇らせようとでもいうのか。おそらく「雲南省重点文物保護単位 英国領事館」は中英友好のシンボルとして、また滇西における抗日戦争の記念碑として保存される。あるいはレトロ・モダンな雰囲気の小洒落たレストランにリニューアルされるだろう。《QED》