【知道中国 2905回】                      二五・十・仲六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅151)

イザベラ・バードが歩き、中国という広大で多彩な環境が秘めた様々な資源をめぐって西欧列強が凌ぎを削ったグレート・ゲームの時代を現在と対比してみるなら、鄧小平が毛沢東を食い破って対外開放して以降は、あるいは第2次グレート・ゲームの時代と見なしてもよさそうだ。ただ、西欧列強に日本を加えたプレーヤーによって担われたと前回とは大きく違って、今回は中国共産党という極めてタフで狡猾・老獪なプレーヤーが加わったことだろう。現在までは共産党の術策に幻惑・翻弄されるがまま、といったところか。

時間と場所が錯綜して誤解を招きかねないが、ここで改めて時計の針を20世紀初頭に戻し、貴陽から雲南を抜けて緬甸(ミャンマー)北部に向った伊東の旅を追ってみたい。

先ず貴陽。「貴陽武備学堂の高山少佐(今の高山大佐公通氏)以下の学堂諸君の歓迎を受け、久々にて我が同胞の温かき情に旅の疲れを休めた。此の武備学堂は貴州省城の南郊にあり、六名の日本教習が教鞭を執って居ら」れた。

当時、中国各地の地方政権指導者の多くは先を競って武備学堂、つまり士官学校を創設し日本から軍人を招き強兵の育成に努めた。西欧列強の侵略から郷土を守るために先ず必要なのは強い兵隊である。ならば日露戦争に勝利した日本に倣うべし。そこで、日本式軍人教育によって鍛え上げられた強兵を擁することで強力な権力基盤を築こうという狙いだ。

貴陽からの旅は、「先年此の地を歩渉せられ、当地に数日滞在され」た鳥居竜蔵が「旅行中乗用された轎」に修繕を加え使う。人類学者・民俗学者・考古学者で知られた鳥居(1870~1953年)は、早くもこの地に踏み入れていた。明治人はフットワークも軽い。

さらに西南に進み上塞駅に着くと、「思いがけなや我より先に二人の日本人が休息していた。互いに余りの意外に呆れて、しばし顔を見詰めていたが、やがて互いに名乗るを聞けば、一人は京都第三高等学校生野村礼譲君、一人は同茂野純一君であった」。野村は英文学志望で岐阜大垣出身、野村は哲学志望で和歌山有田の人。2人の若者が、なぜ西南中国の山中にいたのか。

伊東は「彼の京都西本願寺の大谷光瑞新法主が印度探検の一行に加わるべく、法主の招聘に応じて昨年の大晦日に日本を発し、印度に向いた」と続ける。ともかくも、明治人は呆れるばかりに健脚でもある。

だが先代法主が急逝したため大谷光瑞新法主は急遽帰国してしまい、面談は叶わなかった。後日のことだが、新法主とはビルマ中部のマンダレーで面談することができた。

マンダレーでの面談の折、大谷新法主は「(野村と茂野の)両氏に雲南より漢口に出て日本に帰ることを命じたので、今や漢口に向かう途上にある」。

2人と終日語り合った伊東は、「私は光瑞新法主の雄図を両氏より詳らかに伝聞して感興禁じ難く、つくづく今自分の試みつつある旅行の姑息にして小規模なることを恨」んだ。とはいえ、上海から長江沿いを遡行して貴州、四川、雲南を経て英領ビルマに抜ける旅を「姑息にして小規模」と謙遜するわけだから、鉄の足を持っていた明治人を羨みながらも呆れてしまう。

伊東は西南方向に道を急ぐ。呂南街で会った雲南在住の英国人牧師から、ビルマからの帰途に「井戸川大尉の一行及び高等学校生徒の五人連れの一行に邂逅した」と告げられた。

結局、伊東は貴陽から北ビルマの要衝バーモの間を60日以上かけて踏破する。日本人の場合は「何れも探検的性質のもの」だと記しながら、英仏両国人の旅行は「己の勢力範囲内の土地を普通事務の為や旅行の為」と些か軽んじているが、英国人牧師は怪しい。

中国西南辺境を廻る旅で伊東が出会った3カ国7組は、共に清朝崩壊を見据えた中国権益をめぐっての戦いの準備のための兵要地誌作りなどの基本調査であったと思われる。中国をめぐる列強間のグレート・ゲームは、いよいよ苛烈の度を増すばかり。《QED》