――“もう一つの中国”への旅(旅150)
雲南省の省都・昆明の旧市街に残る雲南陸軍講武学堂は、20世紀初頭に建設されている。この学校は清朝打倒からの革命から共産党政権成立までの半世紀余の間に多くの功労者を輩出し、共産党政権成立の元勲として知られる朱徳や葉剣英が学ぶなど、20世紀前半の激変する中国に大きな足跡を印したことで知られる。
校内に一歩足を踏み入れると、教室や付属病院の佇まい、さらに壁に飾られている往時の銃剣術の訓練風景の写真からは中国の雰囲気は感じられず、そこここに日本風が漂う。それもそのはず。この中国式士官学校は日本人を抜きにしては語れないのである。
じつは雲南は清末における清朝打倒革命の有力拠点の1つであり、その原動力が日本の士官学校に学んだ若き将校たち。彼らが母校である日本の士官学校に倣って創設した雲南陸軍講武学堂に馳せ参じたのが、東京で革命を画策していた孫文などに共感したことから陸軍大学を退学させられたうえに剥官処分を受けた加藤信夫だった。加藤は体育学校を創設し、主任として講武学堂の予備教育に尽力している。「雲南における(清朝打倒)革命の成功は、氏の功績に負ふところ少なくなかった」と、『支那事變 戰跡の栞(上中下)』(陸軍畫報社、昭和14年)は、加藤の働きを讃える。
辛亥革命を機に誕生した中華民国初期、雲南を基盤に中国政治に影響力を発揮した人物に唐継尭がいる。彼もまた日本の士官学校に学んだ親日家であり、山縣初男以下数人の日本人を顧問として招請し、省の財政・軍事などを委ねたのであった。
大正初年前後から末年の間(1912~26年)、昆明滞在の日本人は100名超を数え、日本から大工や左官を呼び日本流の座敷を作り、省政府高官の邸内には桜が植えられ、村上、安田の両洋行もあった。陸相経験者の板垣征四郎も大尉時代に駐在武官として滞在している。「昆明湖には日本からモーター・ボートを取り寄せ浮かべたりし日本人の黄金時代を現出した」(『支那事變 戰跡の栞(上中下)』)とされる。
このように「日本人の黄金時代」を現出したこともあった昆明だが、日中戦争勃発を機に米中協力による「抗日拠点」へと性格と役割を変貌させてしまう。
連合軍による援蔣ルートの拠点となったばかりか、1949年の共産党政権成立を機に毛沢東が鎖国政策に踏み切ったことから、昆明は中国西南辺境の山中に隠されてしまい、加藤も山縣も忘れ去られ、日本の関心も昆明からは遠のいてしまったのである。
「日本人の黄金時代」から1世紀ほどが過ぎた現在、歴代共産党政権は昆明を起点に東南アジア大陸部を貫く鉄道路線を計画し、習近平政権下で数年前から昆明とラオスの首都ヴィエンチャンを結ぶ高速列車が運行されている。東南アジア大陸部版の一帯一路である。
1970年代末に鄧小平が改革・開放の大号令を発し、90年代初頭に李鵬首相(当時)が「西南各省は南に連なる東南アジアに向かって大胆に進め。自らの智慧と力で貧困を打ち破るべし」と命ずるや、四川、貴州、広西などの西南各省を軸に東南アジアとの接点を求めて動き出した。
じつは“もう一つの中国”が物語っているように、漢族は歴史的に大量の南下を繰り返してきた。いいかえるなら一帯一路は習近平政権による強引な対外膨張政策であると同時に、歴史に刻印された漢族による南下の再開とみなすべき動きなのである。
東南アジア大陸部における国際関係を一歩下がって俯瞰してみれば、南から北へ向かった動きは百数十年の時を経て北から南へと逆転した。かつて南方から北上した英仏両国とは反対向きに、いまや中国は東南アジア大陸部に向かって強引に南下しはじめたのだ。
これこそ習近平政権がラオス国内を南下させて進める一帯一路に潜む歴史の流れである。ならば、グローバル・サウスの将来像を推し量る指標の1つと考えるべきだ《QED》