【知道中国 2903回】                      二五・十・仲二

  ――“もう一つの中国”への旅(旅149)

伊東に「非常な厚意を尽くしてくれた」「総領事リットン氏」はイザベラ・バードが記す「リットン氏」に違いない。英国は清国を深く捉えていたと思われるリットンを中国の西南端辺境の騰越に留めた。それというのも、「騰越は支那帝国の西南の門に当る要地」だからだ。英国は長江上流を扼する要衝・重慶に領事館を置き、殖民地ビルマ⇒騰越⇒重慶と結んで西南方面から陸路での中国侵攻を企図していたはず。海路と陸路の双方から中国を捉え、中国の大地が秘めた富を貪り尽くす。この辺りに、東方から海路で接することによって育まれた日本の中国観との際立った違い――地政学上の限界か――を痛感する。

じつはミャンマー北部と騰越との間には、古来、①ミートキーナより猛卞、磐西を経て騰越へ。②バーモ(漢字では八莫とも新街とも表記)から蛮允、干崖を経て騰越へ――2本の主要通商ルートがあった。

ミートキーナをさらに西へ進むと東インドのアッサム州の鉄道拠点レドへと繋がり、騰越からは龍陵を経て保山、大理を経て昆明へと通じていた。もちろんバーモから南下すればミャンマー中部のマンダレー、さらにヤンゴンを経てインド洋に結ばれる。

見方を換えれば、中国西南辺境に位置する騰越はヨーロッパ、イスラムから東インドを経て中国本部へと続く東西交易ルートの要衝でもあった。かくて滇西山中のチッポケな街に過ぎないが、古来、陸路通商場として栄えた騰越の姿が浮かび上がってくる。つまり一帯は、昔も今も将来も「離印度洋最近(インド洋にいちばん近い)」ことに変わりない。

歴史を遡ると、フランスは19世紀末以来、殖民地のヴェトナム経由で雲南省への侵攻を目指し、1895年には清朝との間で通商条約を結んでいる。じつは1895年は日清戦争開戦の翌年で、日本が台湾を割譲した下関条約が日清間で締結された年であり、イザベラ・バードの中国奥地への大旅行が行われた時期にも当たる。

辛亥革命の前年に当たる1910年、北ヴェトナム最大の港で知られたハイフォン(海防)から昆明を結ぶ滇越鉄路を建設し、フランスによる本格的な雲南進攻が始まった。

一方のイギリスは清朝との間で1889年に条約を結び、10年後の1899年に騰越に領事館を設け、1902年には税関を置いた。あるいはフランスに対抗すべく満を持して、イギリス外務省は対清外交のエースであったと思われるリットンを開設直後の在騰越領事館に送り込んだとも考えられる。

東南からのフランスに対抗し、イギリスは殖民地であるインド、ビルマを経て西南から雲南を掠略して中国本部への侵攻を狙った。そこで鉄道建設ということになったわけだ。1905年から07年にかけて一帯を測量し、騰越を中心に、西はバーモ、東は大理へと繋がる軽便鉄道建設を計画したものの、頓挫の憂き目に遭ってしまう。

かくて雲南省を掠めて中国本部を窺う戦いでは、フランスが優位に立つ。フランスは清朝が提供した雲南省内の用地を使って、ヴェトナム北部のハイフォン港を発し昆明まで滇越鉄道を敷設している。そこで満鉄に似た形で鉄道用地も事実上フランスの所有に帰す。

時代はやや下って満州事変の翌年で上海事変が勃発した1932年、雲南省を旅したアメリカ人新聞記者W・バートンは上海の英文雑誌に発表した「雲南は満洲と同じ道を辿るか」と題する論文で、「いまやフランスは雲南省の喉元を押さえ、着々とその勢力を増している」と、雲南省におけるフランスの圧倒的な存在感を伝えていた。

19世紀末から20世紀初めの交、イギリスはビルマ東北部から、フランスはヴェトナム北部から、共に雲南省を経て中国本部への侵攻を狙ったわけだ。

このような英仏両国による南方からの侵攻に対し、日本は手を拱いていたわけではない。中国国内の政治情勢の変化に応じ、それなりに手を打ってはいたのである。《QED》