【知道中国 1060回】 一四・四・初五
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野3)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
中野の反右派闘争に関する寝惚けた観察ぶりを見る前に、現代中国を代表する古代史家として知られた楊寛(1914年~2005年)が綴った『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史学者の軌跡』(東京大学出版会 1995年)から、この反右派闘争に関する記述の一部を拾っておきたい。それというのも中野、いや中野に代表される当時の日本の進歩派が如何に荒唐無稽でデタラメ極まりないものであったのか知っておく必要があると考えるからだ。
そこで一例を。『中国現代史』(岩村三千夫・野原四朗 岩波新書 1964年)に記された反右派闘争を故意に「整風運動」と綴り、それが「一部の幹部の誤った作風をなおす目的を果たしただけでなく、社会主義改造達成後の中国に、溌溂とした政治的旋風をまきおこし、中国の人民をいちだんと奮いたたせたのである」との記述を忘れることなく、以下の楊寛の回想を追ってもらいたい。些か長文の引用になるが、ご勘弁のほどを。
■「一体この反右派闘争では、何人の右派分子が作り上げられたのであろうか。確実で詳細な統計などあるはずはないが、多くの人は、四〇万人から五〇万人、すなわち当時の知識分子の約一〇分の一を占めたのではないかと見積もっている。しかも、その一〇分の一とは、ほとんどが高級知識分子であり、著名な専門家・研究者を多数含んでいた。また社会科学分野だけではなく、自然科学分野の著名な専門家も多くふくまれていた」
■「被害者は右派とされた本人だけにとどまらず、彼らの家族まで巻き添えになった。すなわち、地主・富農・反右派分子・悪質分子など四類分子の家族同様、右派分子の家族も人より一等低い『賤民』として扱われたからである。したがって、四、五十万の右派分子の背後には、巻き添えとなった二、三百万に達する家族がいたのである。右派分子に対する処分も、反革命分子の場合と同様、免職・降格・減給・配置転換・懲罰労働・集団労働改造などがあり、さらに、それまでの幾分広めの住居を立ち退き、極めて狭小な住居に移るよう迫られた」
■「私は、この闘争がもたらした悲劇の凄惨さを身をもって体験したことで、はっきりと分かった。いわゆる右派分子は多くの場合、右派的な言論などいっさい口にしておらず、実際は、実権を握る者が運動に名を借りて、意に満たぬ配下の者を陥れたに過ぎない、と。つまりすべてが冤罪なのである」
■「この反右派運動を通じて、人々は、共産党が指導する無産階級専制という政権の本質を、より深く認識できるようになった」
■「この政権は、各段階の党組織が、事実上それぞれの行政機関を管理し、また各機関の党組織が、事実上それぞれの行政機構を管理し、また各機関の党組織が、事実上それぞれの機関のすべてを管轄するというように、党と行政機構が未分離であるばかりか、各段階で権力を掌握している者が、行政・業務、さらには司法までをも一手に統括するといったように、権力が極度に集中しているのである」
■「こうして、上から下への家父長制的な統治体制が作られているのである」
■「(中央・地方、規模の大小を問わず)いずれも各機関のいわば大家父長制であり、機関所属のすべての人間に対する生殺与奪の権を握っている」
■「このような上から下への政治運動に対して、人々は、極めて恐るべきものであると感じるようになっていった」
まだ続くが、ここまでの引用だけでも、何を根拠に中野が「反右派闘争というのもそんなものではない。こう私がいいたくなる」と断言できるのか・・・デタラメが過ぎる。《QED》