【知道中国 2898回】                      二五・十・初一

  ――“もう一つの中国”への旅(旅144)

9月28日、つまり中国人が「九・一八」と呼び、抗日・反日の起点であり象徴であり旗印である満州事変勃発の9月18日から10日後というのが微妙なところだが、ここで中国語の訳文を忠実に日本語に訳しておく。なお、以下の「先生」のみMr.の中国語訳のまま。

「保山市市長熊清華先生

親愛なる市長先生

60年前、米国からやってきた者と中国の若い兵士とは怒江戦役において肩を並べ作戦を展開し、日本天皇の軍隊を追い払った。

米人飛行士は地上で包囲され困窮する部隊への物資の空中投下に当り犠牲になった。

世界大戦における最高の戦場において、米国と中国の歩兵は山上の拠点を猛烈に攻撃し、米軍医療要員は勇敢にも敵の銃弾を恐れず傷ついた中国兵に寄り添い救助した。

1946年、尊敬すべき騰冲人民は英雄的な中国兵士が永眠する墓苑に一基の記念碑を建立し、この地において米人が示した奮闘ぶりを記念した。60年後、感動的な一事を記念するため、両国の人々は墜落した米人1人1人がそれぞれに注いだ心血を確認する。いま、あなた方は彼らのために再び記念碑を建立した。

私は全ての米人を代表し、雲南人民が遥か昔の犠牲者に与えた栄誉に満腔の感謝の意を表す。これは、当時発生した凡ての事実に対する記念碑というだけではなく、現在、我ら2つの偉大なる国家における友誼の証である。

最高の祝福を

喬治・布什(ジョージ・ブッシュ) 2004年9月28日」

英文原本のサインは、たしかにパパ・ブッシュのそれ。アメリカ大統領経験者が差し出し、保山市市長が受け取る。ならば一種の準公式な意味合いを持つ書簡とも考えられる。それだけの格式を持つ英文が指し示そうとする意味・語感が忠実に中国語の訳文に反映されているかどうかを判断する能力を持ち合わせていないだけに、隔靴掻痒の感は否めない。

だが少なくとも中国語訳だけを読む参観者は、日中戦争勃発以来、紆余曲折はあったものアメリカと中国の関係は続いているだけでなく、「滇緬抗戦」という体験こそが「我ら2つの偉大なる国家における友誼の証」となっている。いわば滇緬抗戦が現在の米中両国を結び付けている――と読み取ることになるはず。やはり敵は日本でしかなかった。

滇緬抗戦博物館には、「中国人民抗日戦争勝利80周年」を迎えた現在でもなお反日・侮日の雰囲気が充満している。こう考えることが、現在の習近平政権下の中国社会を理解するうえで必須。闇雲に反中・反習を叫んだところで、大きな効果は期待できないだろうに。

滇緬抗戦博物館で痛感した複雑微妙な思いは、滇緬抗戦での犠牲者を祀った国殤墓園を訪れた際も消えることはなかった。

南方から騰冲の街に入る幹線道路を進むと、左手に白い塀に囲まれた広大な敷地が目に入ってくる。国殤墓園だ。道路を隔てた小高い山の来鳳山に日本軍は陣地を築いた。

幸運にも戦勝国となった中華民国の蔣介石政権が滇緬抗戦で戦陣に斃れた兵士を悼んで1945年に建設したわけだから、国殤の「国」は中華民国、あるいは中国の国でこそあれ、中華人民共和国ではないだろうに。それというのも、この墓園が建設された当時、地球上には中華人民共和国という共産党政権の国家は建国されてはいなかったからである。

広大な墓域に入るとすぐの右手には、高さ1m、直径1.5mほどの土饅頭状の墓があり、墓石に「倭墓」と刻まれている。日本兵のものだろう。当時は日本軍でも葬ってやろうという“殊勝な気持ち”を持ち合わせていたかもしれないが、あまり感心できない。倭墓の2文字から戦勝国の驕りが痛烈に感じられ、あまり気分のいいものではない。《QED》