【知道中国 2896回】                      二五・九・念七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅142)

つまり和順村出身の寸氏一族は和順村から遠く離れた各地に移り住み着きながら、和順村の宗廟を拠り所に一族としての纏まりを現在もなお維持している。中国の西南端に位置する騰冲の、さらにその郊外の和順村をハブにして南はヤンゴン、西はパガン、北は北京、東は上海を結んでグルッと囲めば、そこが寸氏版の“もう一つの中国”とまでは言い過ぎとは思うが、国境を越えた寸氏一族のネットワークが動いていることが指摘できそうだ。

寸氏宗廟入り口の両側に置かれ、来訪者を見張っている大理石製の獅子の台座には「二零零九年 敬献」と文字に続き、30人ほどの「緬裔孫(ミャンマー在住子孫)」の名前が刻まれていた。

ここで興味深いのはミャンマーの寸氏一族からの寄付が2001年以降、つまり中国のミャンマー進出という流れが顕著になりはじめて以降に活発化している点だろう。寸氏宗廟もまた鄧小平に率いられるようになって以後の中国を軸として激変した国際関係の“恩恵”に与っていた。こう考えても、強ち間違いはないはずだ。

であればこそ、かりに文革が続いていたら、和順村の寸氏宗廟が修復されることはなかっただろうし、ましてや和順村を寸氏以外の人々が観光に訪れることなんぞ金輪際ありえなかったに違いない。

ここまで記してきてハタと思い至ったのが、現在の和順村が持つ極めて今日的であると同時に日中関係――ということは、とりもなおさず日米関係であり、米中関係に深く関わるワケだが――を考えるうえでの政治的で微妙な役どころである。

一例を挙げるなら80年目の「8月15日」を挟んだ、米中両国首脳の奇妙に平仄の合った発言だろう。つまり両国首脳は共にあの戦争は日本に対する“正当な懲罰”であり、日本は当然の報いを受けて然るべきであり、それ相応の償いを果たすべきだといった点では、ほぼ一致している。トランプと習近平のリクツに従うなら、80年前の敗北はホワイトハウスにとって「対日戦争勝利」となり、共産党政権にとっては「中国人民抗日戦争勝利」となる。いわば米中共通の歴史感覚からするなら、戦前の日本は“邪悪な存在”でしかない。

以下、和順村の「滇緬抗戦博物館」に関しては2012年の雲南省西南端旅行に関し報告済み(拙稿、745~790回)だが、適宜訂正・加筆し、以下に綴っておくこととする。

和順村に併設された「抗日テーマパーク」とでも呼ぶべき施設の正式名称は滇緬抗戦博物館。「滇」は雲南省を、「緬」はビルマ(ミャンマー)を指す。つまり、ここは雲南省と雲南省に近接するビルマにおける抗日戦争をテーマとした博物館である。

入り口に掲げられた大きな看板の滇緬抗戦博物館の7文字を揮毫しているのは、台湾の総統選挙で“連戦連敗”した元国民党トップの連戦であり、係員は「数年前、連戦が来訪した際に書いた」と説明する。なんのことはない、「国共合作」は和順村でヒッソリと続いていたわけだ。いや、それだけではない、アメリカも一枚噛んでいたから驚きだ。国民党に共産党、それにアメリカまでくっ付けてしまうというのだから、「抗日」はアロン・アルファー以上の万能瞬間接着剤ということになる。この点、日本人は迂闊に過ぎる。

建物の外観からして、建設から然程の時間は経っていそうにないだろう。ならば、これまでみてきた一連の“抗日遺跡”がそうであったように、ここでも抗日の歴史と観光を結び付けようという策動は胡錦濤政権(2002~12年)に端を発しているようにも思えた。

博物館の展示は、滇緬方面における抗日戦争では米軍の全面協力を受けたが、“悪逆非道の日本軍”と主体的に、敢然と、雄々しく、犠牲を恐れずに戦ったのは共産党指導下の中国人民だったという“苦しい物語”で貫かれている。いわずもがな。兵士が米軍にとって消耗品でしかなかったなどという「不都合な真実」は完全に伏せられていた。《QED》