【知道中国 2895回】                      二五・九・念五

  ――“もう一つの中国”への旅(旅141)

ミャンマー華人の「愛郷」と「宗親」を思う振る舞いの一端は、来鳳寺からそう遠くない距離にある騰冲郊外の農村でも見受けられた。

そこは和順村と呼ばれ、500年ほど昔に四川から移り住んだ寸氏一族によって拓かれた村落だった。寸氏一族のなかの喰い逸れた一団が新しい生存空間を求めて故郷を後に各地を流れ歩き、なんとか落ち着いた先が和順村のはじまり、ということになる。

周囲を一見してみても、肥沃な土地とは思えず、まして莫大な富をもたらすほどに広大な農地があるわけでもなさそうだ。だが、和順村は堅固な石垣と白壁に囲まれ、周囲の村落とは隔絶し、防備を固めているようにも思える。

素人考えだが、こんな鄙びた農村地帯で、こんなに豪壮な集落を建設できるわけがない。こう疑問を持つのが当たり前だが、和順村の中心に位置する寸氏宗廟を覗けば、その疑問の一端が“氷解”する。

スッキリと堅固な造りの宗廟の一番奥の部屋には、寸氏一族を引き連れてこの地にやってきた初代の神位(いはい)を中心に歴代の頭領の神位が並んでいる。壁面に記された一族の来歴には、一族が稼いだ莫大な富は、この一帯の貧しい農地から得られたものではないことが記されていた。

じつは清朝に黄昏が迫った18世紀末、一族のなかの野心家が「こんなシミッタレでショボクレタ農村に蹲っていても将来はタカが知れたもの。ならばイチかバチか」と、敢えて風険(リスク)を取って新しい生存空間を求めて南下した。やがてパガン地方を中心とするミャンマー西部一帯でルビー採掘という幸運を掴んだのだ。つまり和順村を豪華に一新させる一連の工事の原資はミャンマー西部のルビー鉱山から得られた、というわけだ。

採掘権を手にし、ルビー原石を掘り出して研磨して売る。鉱区も販路も拡がると当然のように人手が不足する。そこで和順村から一族を呼び寄せる。なんせ彼ら民族は同宗(同姓)、同郷という自己人(なかま)しか信用しない。ルビーで稼いだ莫大な富は一族で独占し、故郷に持ち帰る。

かくしてミャンマー西部のルビー鉱山と和順村を結んでの同姓(宗親)=同郷=同業の強固なルビー・ネットワークが構築され、寸氏一族の住む滇西(雲南省西部)の鄙びた農村は石造りの豪壮な集落へと変貌を遂げることとなる。

古今東西同じだが、莫大なアブク銭にはヒトが群がる。その代表が孫文だろう。20世紀前半の中国を代表する知識人の胡適のパトロンも、どうやら寸氏のようだ。和順村に残されている2人の揮毫は、やや皮肉な見方をするなら、彼らが寸氏のカネに群がったことの“ウソ偽りなき証文”ではなかろうか。分不相応に完備した図書館も設けられていた。

寸氏宗廟の壁に刻まれた歴代の碑文には、嘉慶十三(1809)年に創建された宗廟は「十年浩劫」、つまり1966年から10年続いた文化大革命によって付設の学塾を含む施設と共に「惨遭滅頂之災(メチャメチャに壊され)」てしまった。そこで一族に「熱情捐資(心のこもった寄付金)」を求めると、たちどころに浄財が寄せられ、2回の修復工事を経て本来の姿を取り戻した――と記されている。

では「熱情捐資」は、いったい誰が、どこから寄せたのか。

もちろん「貧乏こそ革命的」を掲げる毛沢東思想が荒れ狂った中国国内で調達できるワケがない。寄付金額の多い順番に居住地と名前とが記されているが、2回の修復工事共にズラッと上位を占めるのはミャンマー在住の寸氏一族。これにタイ、台湾、北京、上海、重慶、深圳、河南、貴州、昆明、雲南省各地の寸氏が続く。

かくて寸氏のネットワークが国境とイデオロギーをスルリと潜り抜け浮かび上がってくるという寸法である。《QED》