【知道中国 2894回】                      二五・九・念三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅140)

広東系集中居住区の中心は、やはり観音寺(正式には仰光広東観音古廟)である。堂宇全体の金ピカぶりが気になったので寺の職員に尋ねると、2年前に全面的改修があったとのこと。改修工事はヤンゴン在住を中心にミャンマー各地の広東系からの寄付で賄われわけだが、ならば軍事政権と民主化を求める勢力の鬩ぎ合いが続き、アウンサンスーチーの処遇を巡って欧米からの強い批判に曝されていた不安定な内外環境に置かれていても、華人は観音寺の求める改修資金に応じていたことになる。

いいかえるなら政治的激動――この場合は軍事政権の強権政治であれ、激しい民主化運動であれ――が目の前に広がっていようが、華人社会の伝統的活動は淡々と粛々と続いていたわけだ。政治的対立と混乱のスキを突き、危機の機は好機の機とばかりに募金集めに奔走していたのだろうか。ならば、まさに機を見るに敏。

この旅から10年が過ぎた2014年の春、中国西南部の雲南省の、さらに西南の隅辺りを歩いた折りである。騰冲(旧名は騰越)で訪ねた来鳳寺で、縦横1m程の面に「旅緬華僑于公元一九八九、九零年捐贈騰冲来鳳寺玉佛流芳碑」と刻まれた石碑を目にした。碑には、ヤンゴンやマンダレーなどミャンマー各地の「知名僑商(有名な出稼ぎ商人)」、それにヤンゴンの中国仏教研究会やマンダレーの華人系寺院などが、1989年から90年にかけミャンマー産の玉で作られた仏像、それに高額資金を来鳳寺に寄付したことが記されていた。

改めて境内を見回すと、同じような内容を刻んだ大小いくつもの石碑が建っているではないか。

ここで改めて1989~90年のミャンマー社会の動きを振り返ってみたい。

1988年に民主化を求める学生らが敢行した大規模な反政府デモによって、1962年から一貫して独裁体制を布いていたビルマ社会主義計画党(BSPP)が事実上崩壊している。翌1989年には民主化運動制圧を企図し、国軍はソウマウン大将を議長にした国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置して軍政を開始する。これに対し民主化勢力はアウンサンスーチーを書記長に押し立て、反軍政・民主化を掲げる国民民主連盟(NLD)を組織した。

軍政当局が国名をビルマからミャンマーに変更した1990年、複数政党制に基づいた総選挙が30年ぶりに実施され、NLDが圧勝した。だが、SLORCは政権移管を断固として拒否する。事態は複雑化し、混乱は長期化の様相をみせる。因みにノーベル賞委員会はアウンサンスーチーへのノーベル平和賞授与を決定したのは、1991年10月であった。

ここで中国国内に目を転ずると、1989年は天安門事件で大揺れに揺れ、欧米の経済制裁に直撃されたことから、鄧小平が富国強兵策を韜晦させて推し進めていた対外開放の前途も危ぶまれ、共産党政権崩壊まで叫ばれたほどだった。

いわばミャンマーのみならず中国もまた大混乱に見舞われていたわけだが、そんな環境にあってもミャンマーの華人は騰冲の来鳳寺への“浄財”の寄進を続けたことになる。

いくつか見た石碑の一つには、「緬僑名商首献玉佛/愛郷愛教流芳千古/超薦宗親齊昇極樂/永佑全家財壽福禄」と刻まれていた。この32文字の漢字をそのまま読めば、ミャンマーに出稼ぎしている著名な商人が玉の仏像を初めて寄進した。故郷を愛し、仏教を愛する尊い名前は未来永劫に伝わる。同姓は挙って極楽に昇り、一族すべてに豊かな財産、子孫繁栄、長寿を永遠にもたらす――となる。

来鳳寺境内の石碑を前に考えた。ミャンマー在住「僑商」が「愛郷愛教」、一族揃っての「昇極樂」、家族全員の「福禄寿」という極めて個人的な願望を石に刻むということは、それらが危機にある両国の国家体制や、動揺続く社会に優先することを意味するのではないか。ここに華人にとって国家観や社会観が現われているとは、やや大袈裟か。《QED》