――“もう一つの中国”への旅(旅138)
そこはCANAL STREET(河浜街)と DALHOUSIE STREET(広東大街)に挟まれ、この2本の大通りの間を西方向から東へ向かってCRISP ST(只荷担)、19th ST(十九条街)、 20thST(二十条街)、LATTER ST(百尺街)、 21th ST(二十一条街)、22th ST(二十二条街)、MAUNGKHINE STREET(五十尺街)、23th ST(二十三条街)と路地が貫いている。
マニアックに過ぎることは十分に承知だが、ここまできたら止められるワケがない。彼らが異郷でどのようにして自分たちの居住空間を築き上げていくのか。探索あるのみ。こう考え、目に付いた漢字看板(表札)を片っ端からメモしてくれよう、と意気込んで路地を隈なく歩いた。以下表記は各路地とも広東大街から河浜街(南から北)に向かっている。なお(●)は宗親(同姓)会館、(■)は同郷会館、(▲)は同業会館を示す。
只荷担を進むと左手に魯北行(▲)、徳星別墅(●)、同発館(▲)。右手は魯城行(▲)、聯友閣(▲)、至徳堂(●)、抱冰堂(▲)、和義堂(●)。
十九条街の左には振源館(●)のみ。右手には広華館(●)、武渓館(■)、群慶館(●)、許家館(●)、始平館(■)、中山館(■)、溯源堂(●)、肇慶会館(■)、革順工会(▲)、永懐館(●)。
二十条街は左に広東大街に面して福興飯店と安華葯房が並び、路地を進むと永華館(●)、集英館(●)、網州会館(■)、同興館(●)、英傑館(●)、勝興館(●)。右手に広東大街に面し観音廟。続いて育徳中学第二校、順成館(●)、高密館(●)、忠勝館(●)、三盛館(●)。
百尺街は広東大街に面した左角に広東公司(広東系を束ねる組織)のみ。右角は寧陽会館(■)で、敷地を接して建設現場で一軒置いて五邑会館(■)、梅氏書堂(●)。なお観音廟と広東公司は敷地を同じくしている。
二十一条街の入り口は左が永福堂(●)で右は陳家館(●)。奥に進むと左手は寧陽堂に張家館(●)。右手は愛蓮館(●)、阮家館(●)、慶徳堂(●)、隴西堂(●)と並ぶ。
二十二条街の左側は李家館(●)、何家館(●)に企業共進会(▲)で、右手は宏陽館(●)のみ。
五十尺街は広東大街に面して左手が武帝廟で、右手が緬華聯合総会臨時弁事処(▲)。左手を進むと協英館、朱家館(●)、利城行、篤友館、林氏館(●)、海宴館、華利館、黄家館(●)、連枝館(●)、宗聖館(●)。右側は利慶館(●)、伍家館(●)、梁家館(●)と古城会館(■)。
広東系集中居住区の東端を南北に貫く二十三条街は左側に曹家館(●)、魯班廟工商総会(▲)、育徳中学が、右側には江夏堂(●)がある。
この無意味と思える漢字の羅列から、世界各地のチャイナタウンで歴史的に行なわれてきた同郷仲間による仕事の棲み分け――いま風の表現に倣うなら「ワークシエリング」?――が朧気ながら窺えるだろう。たとえば西南端の一角に大工仲間が集う魯北行、大工・左官・鍛冶屋の魯城行、その支部組織の同発館と聯友閣が、東北端に魯班廟工商総会が位置している。チャイナタウンでは「諸職の頭」とされる大工を頂点に、建築関係は広東系が独占してきた。この原則がヤンゴンでも貫かれていたことを、街並みが物語る。《QED》