――“もう一つの中国”への旅(旅136)
果敢人を訪ねる下準備としてミャンマー(緬甸。以下、カッコ内は漢字表記の地名)首都であるヤンゴン(仰光。2006年から首都はネピドー=内比都に変更)に向かったのは、2004年の春だった。
当時のミャンマーは、無能な兵士ながら独裁者ネーウイン大将(一説には「呉」姓の客家系)の忠実な部下に徹したことで権力の階段を“着実”に上り詰めたタンシュエ上級大将による軍事独裁体制下にあった。彼が1988年の学生らによる大規模反政府デモを機に国政の全権を掌握した国家法秩序回復評議会(SLORC)の議長に就任したのは1992年4月。SLORCは1997年11月に国家平和発展評議会(SPDC)と名称を変更したが独裁体制は続行され、「民主派のジャンヌダルク」と欧米から熱烈に支持されたアウンサン・スーチーを指導者にして反軍政活動を続ける国民民主連盟(NLD)を力で押えつけていた。
当然のように欧米からの厳しい経済制裁によって経済活動は逼塞・低迷するばかり。この苦境を打開すべくタンシュエが頼ったのは北京だった。経済成長の勢いをそのままに、「熱帯への進軍」を身勝手で強引に推し進めようとしていた中国共産党政権にとっても、タンシュエ政権の“苦境”は渡りに船であり、願ったり叶ったり。
タンシュエのミャンマーに強い影響力を扶植することで西はインド東部に圧力を加え、東は東南アジア大陸部で影響力を拡大する。さらにはミャンマーを介して雲南省とベンガル湾を結びつけることで、マラッカ海峡を経由しなくとも中東のエネルギー資源を中国本部に送ることができる。いわゆる「マラッカ・ジレンマ」の解消が可能となるわけだ。ならば中国がタンシュエの軍政に手を貸さないわけはない。
中国に近づくほどに激しさを増す欧米からの批判・経済制裁に対し、タンシュエは「中国との関係は保身のため以外の何ものでもない」と口にし、「永遠の敵とか永遠の友人とかいうものは存在しない」と呟き、「中国が好きだから仲よくしているのではない」と嘯いたと、『ビルマの独裁者 タンシュエ 知られざる軍事政権の全貌』(べネディクト・ロジャーズ、白水社、2011年)に綴られている。
じつは20世紀20年代、ラングーンと呼ばれていた当時の港の移民受け入れはニューヨークを超えて世界一だったそうだ。学校教師にはベンガル人、銀行家にはグジャラート人、警察官にはシーク教徒、商人にはタミール人などとインド各地からの流入が多く混在し、まるでインド人の街と見紛うばかり。むしろビルマ人は少数派だった。中国人はもちろん、アメリカ人もヨーロッパ人ばかりかラテンアメリカ出身者もいた。
「複合社会」と呼ばれるほどの国際都市であり、カルカッタとの間は蒸気船で結ばれ、航空機の時代に入るとラングーンはアジアの空路のハブとなった。
だが前後4年に亘る戦争時代を経て「複合社会」は砕け散ったばかりか、1948年のイギリスからの独立を経て1962年にクーデターによって政権を奪取したネーウイン大将が率いたビルマ社会主義計画党(BSPP)が掲げる「仏教社会主義」によって統治され、国を閉ざし、国際社会とのつながりを断ってしまう。その後、1988年に学生による激しい街頭行動を経てBSPPによる独裁は終焉を迎えたのだが、一時の自由化と混乱を経て、SLORCによって再び軍政が始まる。
哀しいばかりに薄暗い老朽体育館のような空港ロビーを出でヤンゴン中心街へ。鎖国状態が長かっただけに、すでに華人の活動など廃れている。こう思い込んでいただけに、中心街に向かう大通りで祐馬銀行、五月花銀行、緬甸東方銀行、環球銀行、電脳印刷、珍宝花園などの漢字看板を次々に目にした時には、ナゼか一安心。長かった仏教社会主義体制下とそれに続く軍政下でも、ドッコイ、華人商法は廃れてはいなかったようだ。《QED》