【知道中国 2888回】                      二五・九・初八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅135)

地図には描かれていない“もう一つの中国”の版図は、東南アジアに限られているわけではない。地球上のどこにでも存在すると考えておくのがいいだろう。たとえば中央アジアのカザフスタン辺境で隣国のキルギスに接する山間部をみると、2004年4月末のことだが、その辺りで「東干人」を名乗る一群の中国人集団居住区が見つかったと報告された。

東干とは甘粛省東部を指す。どうやら彼らの祖先は陝西省東部の回民(イスラム教徒)で、19世紀半ばに清朝政府から加えられた弾圧に決起し抵抗したものの無残にも敗北し、天山山脈を西に潰走した末に、この辺りを安住の地と定めたらしい。

当初は3000人ほどだった人口も、1世紀と数十年が過ぎてみると12万人ほどまでに増加。中央アジアの山塊中で他の社会との交渉もなく、閉ざされた環境での生活を余儀なくされてきたこともあり、近親婚による人口増の後遺症からか女性が多い。男女比の不均衡解消を狙って“祖国”の中国人男性との結婚を模索中とも報じられた。

先祖伝来の陝西方言を話すが、すでに文字は忘れ去られ、現在はキリル文字で表記されている。彼らが作る麵、餃子、中華饅頭などの伝統陝西料理は「東干料理」と名づけられ人気を博し、カザフスタンの首都・アスタナには30軒ほどの専門レストランがあるとか。

ここまででも驚きだが、中国からの調査団に向かって「キミは大清国から来たるや」と問い質す東干人がいたというのだか、まさに100数十年の長きに亘って閉じられていたタイムカプセルから生きたヒトが飛び出したようなもの。中国からの調査団も、さぞや面食らったことだろう。不倶戴天の仇敵だったはずの満洲族王朝が1世紀ほどの昔に地上から消え去ったことすら知らなかったとなると、浦島太郎どころの話ではない。ところでその後だが、彼らと中国との交流が進んでいるとの情報も漏れ伝わってくる。

次にカザフスタンから東南に遙かに離れ、東はヴェトナム中央高原から西はインド北東部にかけて広がる「ゾミア」と呼ばれる広大な山塊――東南アジア大陸部(ヴェトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー)と中国西南部(雲南、貴州、広西、四川)を含み、標高300m以上で総面積250万㎢キロ余。約1億人が居住――に目を転じてみたい。

ゾミアの一角、ミャンマー東北部と雲南省が境を接する辺りに果敢人(Kokangese)とか果敢中国人(Kokang Chinese)と呼ばれる一群が住む。清朝当時、この一帯は清朝の属地だった。現在は果敢と呼ばれ、独自の政府、独自の軍隊を持ち、ミャンマーの中央政権とは一線を画す、まさにゾミアの奥に潜む独立国である。

彼らが話す言葉は漢語と呼ばれる現在の中国語とは色合いを異にしている。彼らが語る歴史は、17世紀半ばの明清交代期に行き当たる。北京を逐われた明朝最期の皇帝である桂王を守護し、追尾する清朝軍の猛攻を避けつつ、明朝軍はこの辺りに落ち延びる。北京に送られた桂王は首を刎ねられ、かくて明朝の血統は絶えることになるのだが、残された明軍の残党、つまり異民族である清朝(満洲族)に最期まで抵抗した誇り高い漢族の戦士が、彼らの祖先ということになるわけだ。

果敢族居住区の南方に位置する霍邦・邦隆(Hopang・Panglong)一帯には、「Panthay」と呼ばれる回教徒華人が住んでいる。雲南省西部の大理一帯に定住していた彼らもまた東干人と前後して清朝軍の弾圧を受け、20年ほどに亘って激しく抵抗を続けたが、衆寡敵せず。最終的には制圧されてしまう。清朝軍が繰り返す虐殺から逃れた一群が現在の地に住み着いたとされる。彼らも果敢人と同じような中国語を話す。

ここで一気に現在に飛躍するが、漢族の“亜種”とでも表現できそう彼らが、最近問題になっているタイとの国境地帯に展開する犯罪都市の苗床になっているのではないか。

今から20年ほど前のこと、ミャンマー東北部に果敢人を訪ねてみた。《QED》