【知道中国 2857回】                      二五・七・初九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅109)

これから、時に王室に加え政治家やら国軍最上層などタイの最上層社会を形作っている人物を登場させなければならいこともある。些か奇異に思うだろうが、これもまた“もう一つの中国”を理解するためには必要不可欠な補助線と考える。

それというのも“もう一つの中国”の住人、ことに成功者の人生は徒手空拳・白手起家・刻苦勉励・粉骨砕身・手練手管・考究熟慮・粒々辛苦・面従腹背・狡知謀略・衣錦還郷・落地生根といった類の使い古された四文字熟語では表現し尽くせないからである。彼らの生き方を日本人的常識で捉えることは、やはり容易いことではないだろう。判ったようで一向に判りそうにないのが彼らの文化――何度でもいっておく。文化とは《生き方》《生きる形》《生きる姿》である――であり、それを知るためには、この辺りの経緯・機微を捉えておく必要がある。文化を生態の2文字で置き換えてもよさそうだ。

かくて“もう一つの中国”が極めて重層化・多極化し複雑微妙に入り組んだ社会構造に支えられ、現地社会の最上層にまで浸透している事実を知ることになるはずだ。彼らの社会は一般に語られているように目の前の欲得をテコにして単純化された仕組みによって成り立っているわけではなく、だからこそ単線的なモノサシで測ることで誤解が生まれる。

もちろん彼らも普通の人間ではあるが、時に体内に鵺とキマラを秘めているとしか思えないような振る舞いをみせることもある。鵺とはサルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尻尾を持つ我が国の伝説上の妖怪であり、キマラとは頭はライオン、胴体はヤギ、尻尾はヘビで口から火炎を吐くギリシャ神話に登場する怪獣である。

さて陳弼臣に話を戻すと、1988年1月3日のこと。彼は一族が傘下に置くバンコクで最大規模を誇る近代的総合病院で、8カ月に亘る闘病生活の末に生涯を閉じた。その死が伝わるや、プミポン国王は特使を差し遣わし亡骸に聖水を注いだ。さらに4月中旬に行なわれた葬儀に際し国王は王妃を伴って臨席したというのだから、タイで絶対的権威を誇る国王から賜った至上の恩典であり、王国の草民としては無上の栄誉といえる。タイ上層社会における陳弼臣の“存在感”の大きさと影響力を、マザマザと見せつけたというわけだ。

前世紀後半の東南アジアを代表する銀行を、しかも事実上一代で築き上げたとはいうものの、しょせん一介の民間人に過ぎないし、加えて紛れもない華人である。にもかかわらずタイの国王は最高の礼をもって彼の死を悼んだわけだ。かくて国王を絡ませることで、タイ経済に対する陳の貢献度とバンコク銀行(漢字では「盤谷銀行」とも「曼谷銀行」とも表記)の影響力が内外に向け可視化されたわけだ。国王自らが動いたのか。はたまたバンコク銀行が国王を動かせたのか。

華僑と呼ばれた当時の彼らの生活実態からすれば生年不詳は当然といえば当然だが、陳弼臣は幼少期に当たる1910年前後の数年間をバンコクを北から南に貫くチャオプラヤ川西岸のトンブリ地区で過ごしている。当時、一帯は水上マーケットで賑わっていた。

5歳から17歳までの12年間は血のつながる潮州(広東省潮陽県と汕頭)で暮らし、ここで小中学校時代を送る。バンコクの両親の許を離れ潮州で過ごした背景には、我が子を中国人として育てたいという両親の素朴な思いがあったと考えられる。やはり当時は「教育は祖国の中国で、商売は仮住まいの地であるタイで」「タイは飽くまでも出稼ぎ先に過ぎない」という考えが支配的だっただろう。

17歳の年、バンコクからの送金が絶えた。父親が失業してしまったことから、やむなく潮陽六都中学を退学しバンコクに戻る。彼は働き手を失った家庭を支えるため、バンコクとアユタヤ間を往復する水上バスで切符切りをはじめた。以後、食堂の下働き、コック、苦力と転々と職を変えるが、この間、夜間補習学校でタイ語を学んでいる。《QED》