――“もう一つの中国”への旅(旅110)
ということは、陳弼臣は必ずしもネイティブなタイ語話者ではないようだ。そういえばタイの友人の何人かは陳弼臣のみならず、政財官界で強い影響力を持つ名だたる華人企業家――なかには王室に連なる巨大華人一族の家長もいた――の個人名を挙げて、「彼らのタイ語は聞いてはいられない。ブロークン極まりない」と酷評していたことを思い出す。そういう彼らの爺さんたちは例外なく潮州からの出稼ぎ組であり、彼らはタイで生まれタイ語で育った第三世代ということになる。
華人の超有名人と言葉に関しては、こんな場面に出会したことがあった。
時は1985年のソンクラーン――互いに水を掛け合って新年を寿ぐタイ正月――の頃であり、場所はバンコク銀行本店最上階の大型会議場だった。
バンコク銀行やタイ最大の多国籍企業集団のCP(正大)集団などが本店を構えるシーロム通りは、今ではスカイトレインが走り、超高層ビルが林立する近代的オフィス街の様相を呈しているが、当時、周辺で目立っていたのは華人が「別荘」とか「別墅」と呼ぶ共同墓地のいくつか。それだけに本店ビルの偉容ぶりが際立ち、豪壮な構えそれ自体がバンコク銀行のタイ社会における影響力の大きさを可視化させる働きをみせていた。
その日、1000人規模の会場を満席にして行なわれていたのは中国投資に関するセミナーだった。その種の大型集会としては、おそらくタイで初の試みであり、バンコク銀行だからこそ開催可能だったに違いない。政府関係者や研究者など中国からの出席者が次々に登壇し、参加者に熱心に投資を呼び掛ける。当時は対外開放から数年が過ぎたばかりであり、開放政策に全幅の信頼はおけない。鄧小平失脚の可能性もありえた。それだけにタイの華人企業家としては、中国投資に二の足を踏むのは当たり前のことだったわけだ。
だが、セミナー開催にみられるように、天下のバンコク銀行が中国市場への高い関心を示しているわけだから、一面では華人企業家に中国投資に対する“裏書き”をしたようなものだろう。このセミナーを境にして、タイの華人企業家にとっては中国投資のハードルが一段と下げられたような印象を強く持った。
さて会場での休憩時間である。会場最前列の主催者席では、当時のバンコク銀行の経営の2本柱――陳弼臣にとっては次男の陳有漢(チャトリ・ソポンパーニット)と最側近と目されていた林日光(アムヌアイ・ヴィラワン)――が立ち話をしていた。そこで好奇心の赴くままに2人の近くに席を移し、失礼は承知の上で耳を傾けてみた。すると2人は潮州語訛りの中国語でセミナーの進行具合について意見交換をしていたのである。ここら辺りにも、華人としての意識に及ぼす言葉の働きの一面が窺えるようにも思えるのだが。
さてタイ語補修学校に通う傍ら、陳弼臣は木材会社へと転職している。当時、木材は精米と並んで華僑商人の進出著しい分野であり、それゆえに帳簿記入など事務全般は中国語が必須だった。そんな事情から、陳弼臣が身につけた本場仕込みの中国語(潮州語か)が大いに役立ったに違いない。
入社当初は単なる帳簿係だったが、木材を見分ける確かな目を備えたうえに商売上手だから、たちまち頭角を現わし、数年後には副支配人に納まるなどスピード出世をしている。
栴檀は双葉より芳しいが、やはり好事魔も多いようだ。満州事変勃発の1931年には勤務先の木材会社が火事で倒産し失職の憂き目に遭ってしまう。因みに翌1932年になると、タイでは現在の「国王を元首とする民主政体」につながる「立憲革命」が起きている。
さて職を失った陳だが、ある華僑一族と共同出資で建設会社を設立。株式の5%を手に彼は支配人に。次いで1935年には独力で「五金」で総称される金物を扱う亜洲貿易を創業する。第二次大戦前夜という時代が奏功してか、営業規模は急拡大をみせる。《QED》