【知道中国 2859回】                      二五・七・仲三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅111)

1940年12月、日本軍は南タイのシャム湾(現在、一般には「タイランド湾」で呼ぶ)に面したシンゴラ海岸に上陸する。ヤワラートで新興商人として頭角を現わしはじめた陳弼臣は曼谷木業、亜洲聯合貿易、星原、亜洲保険などを経営し、木材、五金、文具、紙、薬品、保険業へと進出を果たすのだが、当時の営業傾向から判断して、最終目標を金融、わけても銀行経営に定めていたことは間違いないだろう。

第二次大戦を挟んだ数年間、タイ政府の姿勢は初期の親英から親日へ。さらには後期の親米へと目まぐるしく変転する。この間、中国における戦場は時の経過と共に南下し、潮州を含む華南一帯――「僑郷」と呼ぶ華僑にとって血でつながる故郷であった――にも広がることになる。

当然のように東南アジア各地の華僑社会でも反日・抗日運動が活発化する。親日姿勢をみせた当時のピブーン政権は抗日・反日運動取締りのため、華僑に様々な制限を加えている。だが、日貨排斥・義援金拠出・中国での抗日戦争への参加などが途絶えることはなかった。親日で動いた華僑社会上層のなかには、日本敗戦が明らかになるや暗殺された者すらいた。中国で猛威を揮った国民党による漢奸狩りは、華僑社会にまで及んだのだ。

陳弼臣は当時の自らの政治的立場や行動を旗色鮮明にしてはいないが、断片的に語っている回想の類を拾い集めてみると、次のようになるはずだ。

先ず彼は親米系の「セリー・タム(自由タイ運動)」に参加し、反日地下活動に従事した。自宅にセリー・タムと重慶政権との連絡拠点を置き、バンコク東郊のシーラチャーに構えた邸宅を武器庫に提供した。時に抗日運動参加者の疑いを受け、日本憲兵の手で逮捕・拘禁されたこともあったとのこと。

もっとも戦後になっての回想であり、そのまま鵜呑みにはできそうにない。やはり割り引いておくのがよさそうだ。とはいえ、野心満々のヤリ手としてヤワラートの街を飛び歩いていに違いない。

ビルマから進発して東インドへの進攻を目指したインパール作戦(1944年3月~7月)、同じくビルマ東北を拠点に雲南西南部攻略を目指した拉孟・騰越の戦い(1944年6月~9月)――ビルマ西部と東北部での敗北に加え、タイを含む一帯の制空権も奪われてしまったことから、日本軍は挽回不可能なほどまでに劣勢に立たされる。

そんな1944年の12月、陳弼臣は有力華僑企業が軒を並べていたヤワラートの中心である公司廊街(ラージャウォン)にバンコク銀行を創業した。当初の行員は23人で、資本金は400万バーツ。

ところで有力出資者の1人に中枢として銀行経営を支え、1980年代前期の一時期に会長を務めた許敦茂(プラジット・カーンチャナワット)は、1970年代に入りタイの卓球チームを率いて中国に乗り込み、1975年のタイ中国交正常化への道筋をつけたことで知られる。かくて「タイのキッシンジャー」と呼ばれることになったが、当時のタイの対中外交の影の主役を盟友が務めていたわけだから、常識的に考えるなら対中交渉の一切は陳弼臣にはツツ抜けだったはずだ。

ならば許敦茂が現地で知り得た共産党政権の動静――当時は文革最末期で、毛沢東に昔日の威令は失せ、四人組に対する怨嗟の声が中国全土に渦を巻いていた――が陳弼臣以下のバンコク銀行経営最上層の頭の中にインプットされていたと考えられるのだが。

創業当初の陳弼臣は多くの企業家の成功譚に必ず登場する常人離れした働きぶり――たとえば朝の7時から夜中の11時、12時まで。もちろん年中無休――を発揮し、進出著しい外国銀行に加え次々に設立された中小銀行との商戦に立ち向かったのである。《QED》