――“もう一つの中国”への旅(旅112)
1945年8月15日に日本が降伏しタイにおける戦争が終わりを告げる。戦火が収まるや、外為部門を手始めに銀行経営は軌道に乗る。為替レートのリード役となり、L/C業務への進出も果たす一方で、徐々ながら始まったタイ人による銀行預金に対応することとなる。
それまで銀行という存在を信用せず、また眼中になく、それゆえに銀行預金に関心を示すことが少なかったタイの庶民にとっては、銀行預金という制度そのものが理解の外であったといわれる。やや穿った見方をするなら、日常生活のなかで銀行預金は必要なかった。その日暮らしが常態だったわけだ。ところが戦後の経済規模拡大に伴う消費文化の波が庶民の日常生活にも及ぶようになると、彼らも現金生活に慣れ親しみはじめたのだろう。
時代の変化を巧みに銀行経営に取り入れることで、バンコク銀行の経営は順調に進んだかにみえた。だが、この段階で起きるのが戦略なき経営。つまりドンブリ勘定式経営である。予想外に入ってくる日銭に気を大きくしてしまったのだろう。何人かの共同経営者が無謀にも不動産に手を出し、資金を焦げ付かせてしまった。ヤワラート一帯に管理不備、経営不振の噂が広がる。当時を「ライバルだった2つの銀行が流したデマ」と陳弼臣は苦々しく回想するが、2回ほどの取り付け騒ぎを引き起こすなどの経営危機に見舞われる。
この時、陳弼臣は外部から新しい人材を登用し、片腕として経営立て直しに当たらせることを考えついた。タイで最初の近代的銀行経営者と評価される黄聞波(ブンチュー・ロジャナスティェン)である。その功績から後に「バンコク銀行中興の祖」と呼ばれることになるのだ+が、その声望が極点に達した辺りで、陳弼臣は非情にも斬り捨てている。その経緯については、黄と同じような形でバンコク銀行から“追放”された林日光の場合と関連づけて後に示すことにする。
1952年に起こった経営危機を機に、陳弼臣は共同経営者から株式を買い取り経営の実権を一手に掌握した。その一方で政界工作に乗り出す。ピブーン政権(1948~57年)中枢に接近し、ピブーン元帥の片腕だったシリ副経済大臣をバンコク銀行会長に迎えることで、政府資金を引き出すことに成功する。かくて同年5月には銀行資本は創立当初の400万バーツから2千万バーツから5千万バーツへと急増した。なお、60%は政府の持ち株だった。
この時期に陳弼臣が下した決断――①黄聞波の経営中枢への採用。②経営実権の完全掌握。③政府資金の導入――は、銀行経営の将来に予想以上の好結果をもたらすことになったが、やはり政府資金の導入は政局の動向が銀行経営に直接的影響を及ぼすという不安定要因をもたらすことにもなった。
その後、政府資金の占める割合は最終的には10%前後にまで引き下げられたが、権力闘争の帰趨が直接的に銀行経営を左右する状況が変ることはなかった。その典型を、政権掌握後に「鉄血宰相」で呼ばれるほどに強権を振り回すことになるサリット元帥が1957年に敢行した「兵団クーデター」にみることができる。
国軍を掌握したサリット元帥の指導したクーデターによって、ピブーン政権は崩壊する。ピブーン首相の腹心の部下であるシリを会長に戴いていただけではなく、同政権とは因縁深い関係にあっただけに、新たに誕生したサリット政権からの介入必至と読んだからだろう。銀行経営を黄聞波に委ね、陳弼臣は早々と香港への亡命の道を択んだ。
香港に難を避けたことは、陳弼臣のみならずバンコク銀行の経営に大きな危機ではあった。政治との過度の接近がもたらす悪い事例ではある。だが、香港で“配所の月”を黙然と眺めて暮らすようなヤワではなく、転んだところでタダで起きるワケがない。
香港での5年3カ月の間、陳弼臣は香港の潮州系企業家を募り香港商業銀行を創業する一方、1954年には香港支店を開設しバンコク銀行海外支店網作りに乗りだす。《QED》