【知道中国 2861回】                      二五・七・仲七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅113)

戦後の香港経済の立て直しの中核勢力は共産党政権を嫌って中国を離れ香港に移った浙江系企業家であったが、じつは潮州系も大きな地盤を築いていたのである。そこに陳弼臣は狙いを定めたに違いない。潮州系という地縁に加え、金融業という業縁が香港における陳弼臣を支えたことになる。後に彼は5年余の香港生活を「全くのムダであった」と苦々しく回想する(そう装ってみせる?)。だがバンコク銀行の経営を大きく押し広げ多角化させたわけだから、現実的には「全くムダ」であったわけがない。ここからも“もう一つの中国”に張り巡らされた地縁と業縁が秘めた絶妙なカラクリが窺えるはずだ。

1963年、「鉄血宰相」のサリット元帥が病死したことで、政権は同元帥を支えていたタノーム、プラパートの両大将(後に共に元帥)に引き継がれる。早速、陳弼臣は香港での生活を切り上げバンコクに戻り、プラパート副首相兼内務大臣を会長に迎えるなど、銀行経営に再び政治の力を引き込むべく動き出す。昨日までの敵は今日からは用心棒となる。

結局、タノーム(首相)=プラパート(副首相)政権は1973年10月の「学生革命」で倒されるまで10年ほど続くわけだが、この間、アメリカ軍に対しヴェトナムの戦場への出撃拠点としてタイを提供することでアメリカ政府を強力な後ろ盾とし、「ドミノ理論」がもたらした共産主義化への危機感を背景(口実)に、反政府の動きを強権と恐怖でネジ伏せ続けた。もちろん戦争特需がタイ経済のパイを大きく膨らませている。

強権体制にあった同政権は、サリット前政権から引き続き「上からの近代化路線」を突き進む。「開発独裁」の波に乗ってバンコク銀行は投資・融資部門に業務を拡大させることになり、この時期に融資を受けた華人企業家の多くが1970年代以降のタイ経済の牽引役として大きく成長するわけだから、やはり禍福は糾える縄の如し、ということだろう。

タイ経済の成長に平仄を合わせるかのようにバンコク銀行も拡大を続け、1970年代に進むに頃には政局の動向に左右されないだけの経営基盤を確立してしまう。かくて1973年の「学生革命」によって会長を務めていたプラパート元帥が国外追放処分を受けようとも、銀行経営に齟齬が生じなくなっていた。いつしか用心棒を雇う必要はなくなっていたのだ。

その後、バンコク銀行は陳弼臣(会長)と黄聞波(総裁)の二頭体制で順調な経営を続けるが、1970年代末になると「中興の祖」である黄聞波を事実上解任し、後任の総裁に次男の陳有漢を据えている。さらに1980年発足の第一次プレム政権で大蔵大臣を務めた林日光を会長に迎え、自らは経営の第一線から一歩引いた形をとる。こういった重要人事が自在にできるのも、バンコク銀行が基本的には陳一族の家族経営であればこそ、だろう。

1984年には経営体制を全面的に改め、自らを名誉会長とし、陳有漢、林日光、四男の陳永建(チョート)の3人を従える形の経営体制に移行する。だが陳有漢と陳永建は兄弟とはいえ母親が違うだけに、“ポスト陳弼臣”をめぐって両者間にスキマ風が吹き始める一方、陳有漢がみせる独断専行気味の経営方針に対する経営上層内の不協和音が噂されるなど、1980年代も半ばを過ぎる頃には経営不振が表面化。二番手で王室に連なる伍(ラムサム)一族経営の泰華農民(タイ・ファーマーズ)銀行の激しい追い上げを受けたほどだ。

1988年1月に陳弼臣が亡くなるや、母親違いの永徳(チャーン)、永建、永名(チャイ)、永立(チョッチュ-)、鳳翎(チョッチョーィ/女)が経営中枢から外されたばかりか、さらに黄聞波と同じように政界に送り出す形で林日光をバンコク銀行から追い出してしまう。1988年当時の華字紙報道からするなら、陳弼臣は次男ではなく四男の永建にバンコク銀行を託そうとしていたようにも見受けられたが、銀行経営の全権は長男の助力を得た次男の手中へ。ここら辺りにも、企業経営拡大のカギである家族経営が避けて通ることのできない厄介な問題――経営の合理性と血の相克――が潜んでいるはずだ。《QED》