【知道中国 2866回】                      二五・七・念七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅118)

回り道ついでに、ジャーナリストを経てイギリス・エジンバラにあるナピエール大学で教鞭を執るA・マックレガー・マーシャルが著した『A KINGDOM  IN CRISIS』(Zed Books.,London  2014)にみられる次の一節に目を通しておくのも一興と思える。

「(父親であるプミポン国王逝去後)彼女は北京近郊に特に設けられた邸宅にひっそりと住むことになるだろう。2009年のアメリカ政府秘密外交電報に、『我々が話を聞いたシリントーン王女を良く知る人物も含めた多くの王室ウォッチャーによれば、父君が逝去した場合、彼女は国家の安定と彼女の個人的安全のため、国家の舞台を兄君に残してヒッソリとタイを離れるだろう』と記されている」

脚注に依れば、このアメリカ政府秘密外交電報には「09BANGKOK2967」の番号が付されている。とはいえ、この本の出版は反タクシン運動が最高潮に達し、クーデターによってタクシン派のインラック政権が打倒された2014年に出版され、タイでは発禁処分とされている点に考慮しておく必要があろうか。

A・マックレガー・マーシャルの主張の真偽のほどは不明だが、9世王から10世王に王位が委譲された前後、バンコクでは「北京近郊に特に設けられた邸宅」の話を何人かの友人から耳にしたことがある。もちろん王女に関しては一貫してヒッソリとした振る舞いが報じられている。伝えられる限りでは、現在まで「国家の舞台を兄君に残してヒッソリとタイを離れる」ことはないようだ。とはいえ、訪中は定期的に繰り返されてはいるのだが。

ここら辺りで横道にから引き返し、本筋に戻って陳・謝両家の結婚式に立ち返り、残る一方の当事者である謝家の大黒柱・謝国民(タニン・チョウラワノン)の歩みを追い掛けことになるが、その前に、先ずは父親の経歴を簡単に紹介しておく。

1939年にヤワラートに生まれた謝国民の父親である謝易初は潮州(広東省澄海県)出身で、1922年に渡タイし、ヤワラートで「正大荘」のカンバンを掲げ種苗店を経営する一方、飼料の開発・製造・販売から養鶏・養豚業に進出している。1922年の汕頭支店開設を可皮切りに、チェンマイでの農園経営(1936年)、バンコクでの羽毛輸出(1945年)などを軸に、汕頭と東南アジア一帯を結んだアグリビジネスのネットワークの初歩を築いた。

1953年になると実弟の謝少飛らとバンコクで現在のCP(正大)集団の前身ともいえるチャローン・ポカパンを創業。1957年に中国に戻り、国営白沙農場副場長兼技術員に就任し、1965年にはヤワラートの家族の元に帰っている。

1957年は、タイではサリット大将がクーデターで政権を奪取し独裁政権への第一歩を踏み固めた年。中国では毛沢東主導で発動された反毛派一掃の権力闘争である反右派闘争が始まった年に当たる。1965年はタイでは2年前の1963年に急死したサリットに代って成立したタノム=プラパート独裁政権の2年目であり、中国では文革発動の1年前だった。

1957年から1965年までの間、タイは強圧的な軍事独裁政権の時代であり、開発独裁体制にあった。一方の中国では反右派闘争で毛沢東による独裁体制が築かれた結果として現実無視の大躍進が発動され、全土は飢餓地獄に陥る。やがて1960年代に入り毛沢東に代って権力を掌握した劉少奇が推し進めた限定的な自由化が進むや、国を挙げて飢餓地獄脱出に向かい経済的に一息ついた。その結果、民心は毛沢東を離れ劉少奇に傾く。そこで毛沢東は民心を奪い返すべく劉少奇に対し権力闘争を仕掛け、1966年に文革を発動する――

1957年の国営白沙農場副場長兼技術員就任から文革前夜までの8年余の間、謝易初は共産党政権下でどのような体験を重ねたのか。決して平穏無事な日々だったはずはないのだが、そこから彼はなにを学び取ったのか。謝易初の体験は、どのような形で息子に受け継がれているのか。この辺りも、謝国民を知るうえでのカギとなるだろう。《QED》