――“もう一つの中国”への旅(旅119)
ここからは謝国民を華人の典型と見なし、その人生を追い掛けようと思う。それというのも、この作業を続ける中で、日本人として等閑視するわけにはいかない華人、いわば“もう一つの中国”の住民の姿が浮かび上がってくるはず、と考えるからである。
そこで、先ずは人名辞典風に始めたい。
1936年にバンコクで生まれた謝国民は汕頭と香港で初等・中等教育を受けた後、1958年にバンコクに戻って国営企業に就職し数年勤務。父親創業のチャローン・ポカパンには1963年に入社し、5年後の1868年に3人の兄を押しのけて同社総裁に就任し、経営の全権を掌握し、種苗・飼料・養豚・養鶏を経営の柱としていた同社をタイ最大の多国籍企業へと成長させている。
「アジアで最も優れた企業家」に択ばれた1988年、タマサート大学から名誉商学博士号を授与される。1990年代初期以降、立法議会議員、上院議員など任命され国政に参画するなど、ABCM複合体の構成員としての地歩を確実に固める。
泰中促進投資貿易商会副主席、泰中友好協会副主席、タイの華人企業家を結集し華僑崇徳大学創設をするほか、中国の代表的地方劇である潮州劇のタイ公演を積極的に支援するなど華人文化の養成・普及にも努める。中国においても文化・慈善・社会活動に積極的に取り組む。1997年の香港返還に際しては中国政府より港事顧問に任命されたほか、実兄で香港在住の謝中民(スメット・チョウラワノン)を通じ、中国政府主導の返還事業に民間側の1員として積極的に取り組んだ。北京政府との太いパイプは夙に知られたところだ。
もちろん、この程度の内容では彼の“実像”を描き出せるわけはないが、取り敢えず以上を頭の中に留めておいたうえで、CCTV(中国中央電視台)が2011年8月26日に放送した「対話 華商領袖」における彼の発言を振り返っておきたい。
なお同番組はCCTV司会者の質問に答える形で謝国民の他、マレーシアの郭鶴年(ロバート・クオック/嘉里集団)と鐘廷森(ウィリアム・チェン/金獅集団)、インドネシアの陳江和(スカント・タノト/金鷹集団)の4人が自らの過去と現在、そして将来への戦略を語っている。
先ず父親である謝易初の商法の特長について、謝国民は「父親は値段ではなく価値で勝負した。『品質』を売ることで消費者の信頼を得た。彼が取引したものは『価値』と『信用』だった」と説いた。
種苗や飼料の販売は、消費者が消費するために購買する他の商品とは違う。種苗を売ることで農家の生産を手助けし、飼料を売ることで畜産農家の増収につなげる。種苗や飼料の販売と生産農家は「互恵互利」の関係に立つ。生産者が儲かれば、当然のように販売する側も儲かるという仕組みであり、それゆえに販売する側には社会的責任が求められる。
これを要するに謝易初は「薄利多銷」、つまり薄利多売を前提に生産農家に「品質」と「信用」を売り、結果として生産者との間の「信頼」を築いた。そこで「信用」「信頼」をテコに養鶏・養豚という新しいビジネスへの転身が可能になった、と考えられる。
謝易初の4人の息子の名前は上から謝正民、大民、中民、国民で、真ん中の1字を並べると「正大中国(中国よ、正しく大きくあれ)」と読める。これまた既に知られたところだが、なぜ長男ではなく末っ子の国民が父親の創業した事業全体を継承することになったのか。これまた、中華商法特有の家族経営の可能性を考える上で興味深い点ではある。
CCTV司会者の「標準中国語はどこで学びましたか」との質問に謝国民は、「子ども時代、父親の故郷である汕頭に送られ5年間勉強した」と応じている。父親としては息子を中国人、より象徴的に表現するなら潮州人として育てたかったのであるまいか。《QED》