【知道中国 1069回】                       一四・四・念四

――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野12)

「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 

「大十月社会主義革命四十周年記念」に当たり、「全国土、全人民をあげてわき立っている最中」の「大中国」を歩いてみたが、ギランが報告しているような「ロシア語、ロシア文字が幅をきかせているということは、〔中略〕一般になかった」し、「ホテルの内にしても外にしても、ギランが調子として出そうとしたような、中国人が『鐘と太鼓でソ連人をたてまつっている』といったようなことは私はついに見かけなかった」と、半ば呆れた口調で綴る。

 

そして中野は、「エハガキを買う。漢字だけで書いてある。ミカン水、ビールを飲もうとする。漢字だけで書いてある。マッチの箱、タバコの紙箱、薬、本、骨董屋のがらくた、路面電車の切符、店々の受取り、芝居のプログラム、何から何まで中国語一点張りで押している」と、まるで鬼の首でも取ったようだ。我が足で歩き、我が目で見てみれば判ることだが、どこもかしこも中国語だらけではないか。それみたことか。ギランはウソをついていると、中野はいいたいらしい。それにしても、ミカン水という古風な表現が実にイイ。

 

同じように中国を歩いたとはいえ、時期が異なる。ギランは55年で、中野は57年秋。この間の56年2月に、フルシチョフによるスターリン批判が挟まっていることを、改めて思い起こしてもらいたい。当時の共産主義・社会主義陣営にとって“驚天動地”の異常事態であり、後の国境をめぐって全面戦争一歩手前の武力衝突にまで拡大した中ソ対立の出発点となったスターリン批判の衝撃に、中野は気づかなかった。

 

毛沢東にとって頭の上の重い石だったスターリンが、ソ連で批判されたというのだ。その瞬間、おそらく毛沢東は人知れずに北叟笑み、心の底で「運気好(ラッキー)」と叫んだに違いない。これでオレは全世界の共産主義革命の盟主になれる。野望が沸々と燃え滾っただろう。スターリンという軛が外れたことで、毛沢東は尊大になった。オレにはもう怖いものは何もない。フルシチョフのソ連、何するものぞ、である。

 

同じ毛沢東であり中国だが、55年と57年秋とではソ連に対する態度が、卑屈から尊大へと激変していた。55年は徹底してソ連にゴマを擦り、57年秋にはフルシチョフのソ連を軽んじはじめたのだ。55年当時、おそらくギランの報告のままに、「中国人が『鐘と太鼓でソ連人をたてまつってい』」たであろうことは想像に難くない。だが57年秋は、中野の言うように「何から何まで中国語一点張りで押してい」たということだろう。

 

強い相手、利用できそうな相手、トクになる相手には徹底して阿る。だが一転して優位な立場に立った思い込んだら、もう後は手がつけられない。確実に、徹底して本性を顕わにする。民族主義を煽り、大声で相手の非を論い、理屈にならない理屈を次々に持ち出し、無理無体を重ねても、自らの利益を追及する。これが漢族の振る舞いというものだ。

 

たとえば尖閣海域をめぐる領有権問題である。それまでは一言半句も言及しなかった。にもかかわらず海底の豊富なエネルギー資源埋蔵の可能性を国連機関が公表するや、一転して古来自らの領土・領海だと口にしはじめた。だが技術的にも経済的にも海底資源の掘削が無理と判ったら、鄧小平のいうように「我が世代は愚かだから、後の優秀な世代に任せよう」と。“棚上げ”である。だが技術的にも経済的にも目鼻が立つようになったら、“棚上げ”なんぞ口にしなかったかのように、海上掘削基地を一方的に次々と建設する。78年末の改革・開放政策決定前後、鄧小平は資本と技術欲しさに日本財界に徹底して阿ったではないか。その時から36年余が過ぎた今年4月半ば、中国の司法当局は突如として商船三井の船舶を差し押さえに出た。油断は大、大、大、大・・・・・・・・大禁物。

 

「今度旅行をするというので」宮本顕治から借りたカメラを手に中野の旅は続く。《QED》