【知道中国 2873回】

五・八・初八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅123)

ここで謝国民に向かって発した鄧小平の一連の発言について、敢えて拘ってみたい。

たとえば「我々は海外に数千万の愛国同胞を持つ。彼らは中国の隆盛・発達を望んでいる」「我々は中国を発展させなければならない」に含まれた政治的メッセージだが、ここに見える「愛国同胞」の「国」は、鄧小平(=共産党政権)にとって中華人民共和国以外は考えられないだろう。だが華人企業家の視点に立つなら、自らの血でつながる故郷(ルーツ)を思い描くのではないか。やはり互いが歩んだ歴史に沿って考えるなら、それぞれにとっての「中国」は必ずしも同じである必要はない。だが共に「中国の隆盛・発達を望んでいる」。そこに「互恵互利」「双贏(ウイン・ウイン)関係」を掲げる狙いがあるはず。

つまり文字は同じでも指し示す意味合いは違うことを承知の上で、敢えて互いの相違点を事細かに詮索するようなヤボは避ける。その辺りの阿吽の呼吸、いや大人の判断(利害打算)に、彼らは商機を見出そうと務めてきたということではなかろうか。

謝国民が口にした「我們中国人很聡明」の「中国」と、鄧小平が説いた「我々は中国を発展させなければならない」の「中国」とは、必ずしも完全に重なるはずもない。だが、おそらくは双方ともそのことを十二分に弁えた上で、敢えて「中国」の2文字を掲げた。このように「中国」とはじつに使い勝手がよく、曖昧で融通無碍(身勝手気儘!)な解釈が可能な言葉であり、それゆえに中国とは至極便利で変幻自在で都合の良い概念でもあることを、日本人としては改めて頭の片隅にでも牢記しておきたいものだ。

やはり言葉は魔物。どんな武器でも跳ね返す鎧にもなれば、鋭利極まりない万能の鎧通しにもなる。バカやハサミなんぞとは較べモノにならないほどに“使いよう”なのだ。

閑話休題。

この辺で、タイと中国と両国における政治を向こうに回した謝国民の企業家としての振る舞いを、コロナ禍以後に限ってでも素描しておく必要があるだろう、と考えた。

2022年11月17日午後、タイのプラユット首相の招待に応じ習近平国家主席はバンコクのスワンプーン国際空港に降り立った。バンドン(インドネシア)でのG20出席の帰路である。

なにせ相手が直前の10月16日から22日にかけて開かれた第20回共産党全国大会において異例な形で総書記、つまり政権3期目を果たし、長期政権に大きく踏み出した最高権力者であればこそ、タイ政府が最上級の態勢で出迎えたことはもちろんだが、華人社会もまた最高の布陣で臨んでいる。華人社会における影響力に則って、最上位の中華総商会主席(林楚欽)、中華総商会に次ぐ華人団体である潮州会館主席(徐恵深)を先頭にして数多くの著名な華人企業家や社会活動家が威儀を正して並んでいたわけだが、じつは彼らを差し置いて最初に習国家主席を迎えたのが謝国民だったのだ。

この瞬間、彼がタイ華人社会において突出した立場に位置していることを、習近平政権はもちろん、タイ政府も認めていることが内外に向けて可視化されたわけだ。

APEC首脳会議は11月17日から19日まで開かれていたが、この間、ほぼ行動を共にしたプラユット首相と習近平国家主席の2人は会議関連の一連の行事を終えた後、首相官邸に向かい首脳会談を開いたが、そこでは両国の「安定、繁栄、持続可能な運命共同体建設に関する共同声明」が明らかにされたのである。

この共同声明では2025年の国交正常化50周年を機にして、政治・経済・通商・貿易・農業・先端技術(殊にEV車)などを含む両国による包括的戦略的協力関係の一層の強化が謳われている。だが、ここで見落としてならないのは、CP(正大)集団と深く関わる巨大プロジェクトが共同声明にそれとなく書き込まれている点だろう。《QED》