【知道中国 2856回】                      二五・七・初六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅108)

創業時の最大の問題である銀行からの融資を英国系銀行からは受けられないことから、創業したばかりの郭兄弟公司は店仕舞の危機に直面してしまった。

そんなある日、シンガポールの有力米穀商で潮州系の友人から、「今晩、空港に行けるかい」と誘いが掛かる。「バンコク銀行創業者の大老板(おおだんな)が到着する。シンガポールの米穀商はみんな出迎えることになっているんだが」。そこで郭は「俺も米穀商だ。行かないわけはないだろう」と、空港での歓迎陣に加わったのである。

タイのみならず東南アジア一帯におけるコメの流通は、タイを中心とする潮州系の独占状態だった。当時のシンガポールでは米穀業界は60%が潮州系、残り40%が福建南部出身。同じく福建ではあるが郭鶴年のルーツは北に寄った福州だったから、必然的に“孤立無援”の弱小勢力ということになる。因みに当時のタイにおける最大の輸出品目は米であり、しかも米の流通業界は潮州系の天下だった。もちろん陳弼臣も潮州系である。

陳は歓迎陣の一人一人と握手し、殿が郭だった。ここで不思議なことが起きた。今自分が握手している人物が誰なのかを、陳が知ろうとしたのだ。早速、秘書が返答すると、郭に向かって丁寧に口を開いた。「暇を見てキミの会社に伺いたいのだが」

「どうせ軽い挨拶に過ぎないだろう」と思って気にするわけでもなかったが、驚くことに数日後に東南アジア華人企業家のトップに君臨する大老板が、若者が起こしたばかりのチッポケな会社に現れたのである。

郭鶴年は「後になって彼の来訪目的を考えてみた。彼は豪華な応接室に座って来訪者を待つタイプではなく、自ら先方に出向いて相手の仕事ぶりを実際に確かめる。自分の目で営業状況を見定め、従業員の働きぶりをジックリと観察し、事務所の雰囲気からなにかを感じ取る。だから彼は自分で融資先に足を運ばなければならないのである」と記している。帳簿に並んだ無機質な数字で表された“業績”は時にウソをつく。だから自分の目で確かめ、自分の肌で感じ取る。これが陳による融資審査ではなかったか。

担保はモノでも数字でもない。飽くまでもヒトである。業種ではなく、経営者個人というヒトに投資する。信用・人脈によって形作られる《自己人(なかま)》のネットワークこそ華人商法のキモだろう。だからこそ融資する側に必須の条件は、相手が企業経営者としての能力を備えているかどうかを見抜く眼力。投資家・融資家としての資質は、生まれながらに備わったものなのか。それとも経営に悪戦苦闘する中で養われていくものなのか。

郭は、「規模の大小に関係なく、事務所とか店舗に入った瞬間の直観や印象で経営状態を捉え、将来性を見抜く。極めて抽象的で曖昧だが、その場の雰囲気から何を掴み取るか。この企業はヤル気に満ちているか。だらけ切って倒産を待つだけなのか」とも続ける。

かくして郭鶴年は陳弼臣の融資審査に合格することになるわけだが、どうやら陳弼臣にとっての担保は若き日の郭鶴年が秘めた企業家としての資質・可能性だったようだ。

ともかくも破格の好条件での融資がえられたことで創業時の苦難を乗り切ったわけだが、郭鶴年は「大多数のシンガポールやマレーシアの華人企業家は、バンコク銀行と陳弼臣の恩恵を受けた」とも記す。インドネシアでスハルト政権(1967~1998年)の強大化に随伴して自ら創業した三林(サリム)集団を急拡大させた林紹良(スドノ・サリム/1916~2012年)もまた、陳弼臣からの融資に頼った1人とされる。

どうやら「バンコク銀行と陳弼臣の恩恵」は東南アジア全域の華人企業家に及んでいたらしい。ならば陳弼臣という銀行家を東南アジアの華人企業家社会の基礎を築いた最大の功労者であり、北京の共産党指導者の口吻に倣うなら「井戸を掘ったヒト」と見なしても強ち間違いないはずだ。いったい彼はどのようにして「井戸」を掘ったのか。《QED》