【知道中国 2854回】                      二五・七・初一

  ――“もう一つの中国”への旅(旅106)

客席に向かって舞台右袖には各種の民族楽器が置かれ、10人ほどが音合わせをしている。師匠の指示のままに後列端に座りケーンを構えた。なんのことはない、この日はケーンの吹き手が1人足りなかったから駆り出されたらしいのだ。じつは陸軍軍楽隊の給料が少ないから、師匠はあちらこちらでバイトに励む。今日もバイトにゴ精勤というわけだ。

人前での演奏とはいえ、「レードラレー、レードラレー」と単調に繰り返すだけ。しかも相手は素人だから誤魔化しは効く。演奏が終わるや、次は演奏者との記念写真の時間となる。数人の日本人観光客が舞台袖にやって来て、いうに事欠いて隣の仲間と思しきに、「あら、この人、タイ人にしては色が白いわねェ」。次いでこっちを向いて、「カメラ、オッケーッ」。こういった時は黙っているに限る。日本語など口にしたら雰囲気が壊れるし、楽しい旅の思い出がブチ壊しだ。そこで黙ってニコニコしながら記念写真に納まることに。

当時はフィルム式のカメラの時代である。帰国後に現像した写真を眺めながらタイ旅行の思い出に耽ったことだろうが、まさかタイの民族音楽演奏者の1人が俄仕立てのド素人の日本人だったと知ったら、どんな反応をみせただろうか。ひとりでクスリと笑いつつ、また一つ、タイ生活における私かな楽しみがみつかったような。以来、師匠にお願いして舞台に出させてもらった。日本人観光客を前にケーンを吹いての小遣い稼ぎ・・・病みつきになること請け合いだ。

時に演奏が終わると、舞台衣装のままで楽器を持ち、トヨタのピックアップトラックの荷台に収まって郊外の農漁村の縁日に出掛けることもあった。トラックの荷台に座り、顔馴染みになった演奏者やら役者たちとバカ騒ぎをしながら生暖かい風を切って目的地へ。演奏が終わると、みんなでワイワイと食事にアルコールである。すっかり旅回り一座の座員になった気分であった。

ある日のことである。予定の稽古時間が終わると、師匠は「今日はレストランではないが面白い場所だ」。さて、何処へ。心躍らせて師匠の後を追う。着いた先はムエタイ(タイ式ボクシング)の2大競技場一つであるルンピニー・スタジアムだった。

関係者入り口から事務室へ。ここで渡されたのはいつもの東北タイ農民の野良着ではなく、白い詰め襟の制服だった。とはいえ、この日は出番ナシで見物のみ。今日の師匠はリングサイドに座り、ムエタイ戦士の動きを煽るように緩急をつけて演奏する楽士。ともかくも師匠は国王陛下の軍楽隊員ながら、感心するばかりに各種アルバイトに精を出す。

師匠の担当はリングサイドで試合を盛り上げる4種の楽器の1つである極めて高い音を出す縦笛のパイ・チャイで、目を充血させホッペタを目いっぱいに膨らませながら胸いっぱいの息を吸い口の一点に叩きつけるかのようにして、緩急自在にピーッと頭を突き抜けるような高音を出す。これにマラッカとトゥンの2種の太鼓、さらにチャップと呼ばれる錫製の小型のシンバルの甲高いチーン、チャップ、チーン、チャップの音が加わり、リング上のムエタイ戦士だけでなく、観客をも煽りまくる。

4種の楽器が奏でる音は時にもの悲しい調べで撃ち疲れた戦士の呼吸を整え、時に倒れた戦士を励まし雄々しく立ち上がらせファイティング・ポーズを取らせる。同時にリングでの戦いに熱狂する観客の心をも刺激し、高鳴らせ、狂奔させる。

戦士の回し蹴りが相手の側頭部を正確に激しく撃ち抜く。時に額がパックリと割れ、鮮血が迸る。撃たれた戦士の飛び散った鮮血はリングを赤く染め、時にリングサイドの演奏席にまで飛んでくる。もちろん演奏席で師匠の隣に座っている筆者のところにも。格闘技好きとしてはタマラナイ。その昔、沢村忠の「真空飛び膝蹴り」に興奮したものだが、やはり本場は違う。ムチのようにしなった脚が正確に冷酷非情に相手をブッ倒す。《QED》