【知道中国 2853回】                      二五・六・念九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅105)

先ず訂正を。前回末尾の「生き抜き・・・」は「息抜き・・・」の誤りでした。

さてタイ長期赴任が決まるや、これを好機に「イサーン」と呼ばれる東北タイからラオス一帯にかけた農村地帯で演奏されている「ケーン」と呼ばれる民族楽器を楽しもうと考えた。なぜ民族楽器なのか。日本では耳にできそうにない音に触れてみたいからである。 

同じ動機から香港留学時には京劇伴奏用の「琴胡」を習っている。その際の顛末については以前に記しておいたので再び持ちだすこともないだろうが、他国の民族楽器を学ぶ理由を敢えてリクツっぽく綴るなら、それぞれの民族楽器が奏でる音は、その民族にとって最も耳に心地よい音に違いない。そこら辺りに民族の“心の故郷”が秘められているのではなかろうか。こう考えてのことではあるが、単なるモノ好きといったらそれまでだ。

ケーンとは笙の原型とも呼ばれる竹管楽器で、直系1.5cmほどで長さ1.2mから1mほどの竹の管16本を2列に分けて並べ、下から3分の1辺りに吹き口がついた風箱が設えてある。風箱のすぐ上部の竹管に開けた小穴を両手の指先で押えながら吹くと、なぜか心に染み渡るモノ哀しくも心弾む乾いた音が鳴りだす。農民の歌や踊りの伴奏用楽器だ。

着任から暫くして生活が落ち着いた頃、最初に探したのがタイ語の先生だった。日本で教えた元留学生に頼むと、「ベテランで有能で厳格なタイ語教師です」と60歳前後の女性の先生を探してきた。こういっては申し訳ないが、厳格一途で有能であったとしても、タイまでやってきてソレはないだろう。というわけで申し訳なかったが、色々とリクツを並べ立ててパス。暫くして若い女性の先生に落ち着いた。ところが、である。彼女の父親はタイ近代化の祖と敬愛され、子沢山で知られたラーマ5世チュラロンコン大王の孫娘に当たる王女の執事だった。超不思議で偶然極まりない出会い。まさに願っても得られない僥倖である。これを“活用”しない手はないだろうに。

我がタイ語の先生はチュラロンコン大王の孫娘の執事の娘なら、タイ社会の上層に人脈を持つはず。こう目星を付けた。そこで手始めにケーンの先生を探してくれとお願いすると、「王女に話してみなす」と。1週間ほどが過ぎた頃、先生は陸軍軍楽隊所属の少尉を連れてやってきた。少尉にしては些か歳をくっていると思ったが、軍楽隊で吹奏楽器を担当といった点に興味が湧いたので、一も二もない。毎週日曜日午前9時から1時間ということでお願いした。

早速、次の日曜日からレッスン開始である。

先ずは基本中の基本であるケーンの持ち方だ。両の掌で包み込むように風箱を持ち、両の親指と小指で全体を支え、竹管を安定させる。残った左右合計6本の指で竹管の穴を閉じたり開けたりして風箱の吹き口から息を吹き込んで音を出すわけだが、楽器の構造上、目の前に左右10本の指がタテに並び、しかも音階を変えるたびに目の前で指を動かさなければならないから、なんとも忙しく煩わしく、最初の内は目が疲れて仕方がなかった。

それでも半年ほどの“猛特訓”が奏功したのか、簡単な楽曲ならなんとかこなせるようになってきた。そんなある日、師匠が「今日は早めに切り上げ、いいところへ連れて行ったヤル」と。そこでケーンを手に師匠の後を追うと、タイ料理を食べながら民族音楽や舞踊、それに殺陣などを見せる外国人観光客用のレストランに。さて、今日は奢ってくれるのか、と思ったが、どうもそうではないらしい。勝手知ったるなんとやらで、師匠は楽屋に向かった。もちろん後を追うしかない。

すると師匠は東北タイの農民が着る紺の上下の野良着を差し出し、「早く着替えて」。ワケの判らないままに着替え師匠を追う。薄暗い廊下の先のドアを開けると、そこは舞台である。満席状態の客席はワイワイガヤガヤ。食事しながら開演を待っていた。《QED》