――“もう一つの中国”への旅(旅103)
対外的にはともかく、一族内では母親あっての家長であり、そこで母親の支えがなくなった段階で、家長の威令は一族内に届かなくなる。つまり母親の声は“天の声”だった。
加えて鄭午楼が一族を統括し命運を託した自分の長男である鄭偉昌は、「組織された経済単位」における対外的統括者として、多くの叔父とその家族の首根っ子を押さえ込むだけのチエとチカラを持ち合わせてはいなかった。つまり大家族の家長としてはもちろん、多岐に亘る大企業を経営者として統括するには“凡庸”に過ぎたことから、鄭一族は「組織された経済単位」としての機能を急速に失ってしまったと考えられる。もちろん、鄭一族が内外に迎えることとなった新しい環境――政治的には北京で起きた天安門事件を彷彿とさせる1992年の「5月事件」であり、経済的には1997年のアジア危機――に対応し、家業を取り巻く危機的な環境を乗り越えるだけの手腕を鄭偉昌が持ち合わせていたなら、あるいは企業集団としての鄭一族の急速な退場を防ぐことができたと思える。
とはいえ鄭一族がスッカラカンになったわけではない。華人企業家の一般常識に照らすなら、それ相応の、いや相応以上の資産を手許に蓄えていたはず。ここで超伝統的な福禄寿という考えが頭をもたげることになる。
福とは多くの子孫であり、禄とは他を圧倒する資産であり、寿とは長命を指すわけだが、時代の波に乗りきれず、政治権力の中枢との接点を失い、企業経営から退場を余儀なくされようとも、多くの子孫と資産と、それに健康寿命を保持――つまり福禄寿を全うすることさえできたなら、華人的価値観に照らすなら、それは大成功を意味するはずだ。もちろん企業経営の観点からするなら企業家としては失敗・失格ということになるわけだが。
じつは前後7年余のタイ勤務中、鄭午楼には前後5、6回、合わせて5、6時間ほど膝を交えて話を聞く機会があった。初対面は最初の赴任からほどない1983年で、首相経験者の陸軍大将の私邸であり、最後は1992年の「5月事件」の頃で、職場の上司の邸宅だった。
大将から指定された時間に伺うと、ソファーに深々と腰を下ろした大将の脇に慎み深い風を漂わせながら鶴のように痩せた爺さんが立っていた。大将の「キミが話を聞きたいと望んでいたウテンさんだ。わざわざ来てもらったんだ。遠慮なく、なんでも聞いてみるがイイ」との紹介が終わるや、鄭午楼は満面に笑みを浮かべ握手の手を差し出しながら、「英語、タイ語、それとも華語(中国語)で」と。そこで、すかざず「もちろん華語でお願いします」と返した。彼は華人特有の訛りを余り感じさせない中国語で、もちろん微妙な部分に言及することを避けながら質問に応えてくれた。同時に、時に応じて話の要点を大将にタイ語で丁寧に説明していた。
大将からは「遠慮なく、なんでも聞いてみるがイイ」とのお許しがでてはいても、まさか「御尊父以来のアヘン・ビジネスは、鄭一族が統括する企業の経営基盤にどのように寄与していますか」「東南アジアを起点にしてヨーロッパにつながり、オランダ辺りを中心に広範に行なわれているアヘン・ビジネスの中核を担っているのが潮州人ネットワークとの報道がありますが、世界の潮州系の中心人物であるアナタは関与していますか」などとヤバイ話を、“単刀直入”に問い質すわけにはいかないことは判っている。
そこで話の取っ掛かりにと、当時関心を持って事態の推移を眺めていたアルコール市場を巡っての、政界や国軍を巻き込んで激しく展開されていた利権争い――当時、タイのメディアは「アルコール戦争」と呼んでいた――について尋ねてみた。
もちろん、鄭午楼が中心中の中心人物であり、鄭の背後に控えているキーマンが目の前に座っている陸軍大将であることは承知のうえで。すると案の定、世間衆知のおざなりの返答が返ってくるばかり。当然のように問題の核心を微妙に逸らし続ける。《QED》