【知道中国 2850回】                      二五・六・念三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅102)

「人類は気の遠くなるような長い苦難を経て真の文明世界に到達する。いま、我われは長い道のりの初めの数歩を歩み出しただけだ」は、豪腕無比で知られる企業家らしからぬ“殊勝な発言”ではある。とはいえ常識的に考え、郭鶴年が母親に倣って「真の社会主義こそが社会の究極の目標」と心の底から思い込んでいるはずもないだろうに。

これまでの企業家人生で郭鶴年と郭一族が掌中に収めたであろう巨万の富や名声は、どう考えても「真の社会主義」とは全く結びつきそうにない。この考えを矛盾といわずになんと表現すればいいのか。絶対矛盾の自己同一では到底片付けられそうにない。しょせんは共産党政権に忖度しての発言だろうし、「真の社会主義」を掲げておいた方が中国でのビジネスになにかと好都合との判断からの発言とも考えてしまう。いずれにしても、腹の内を見せないのも彼ら得意のビジネス手法と考えれば、一切の矛盾・疑問は氷解する。

郭鶴年の生まれは1923年で、『郭鶴年自傳 郭鶴年口述 Andrew Tanzer 編著』の出版は94歳の時だ。90代半ばの超高齢になっても母親の影響を公言するとは驚くばかり。それほどまでに母親の影響は強烈だということだろう。

だが、これは郭鶴年に限られたわけではない。凡そ成功した華人企業家にみられる一般的傾向といっておく。規模の大小にかかわらず、これまでの家族経営を動かして来た基本は、やはり母親だった。母親こそを「組織された経済単位」である「家庭の組織者」、つまり隠れた家長と位置づけておくべきだろう。だからこそ郭鶴年はもちろん、郭一族にとっての鄭格如の一族内における存在の重さは、バンコク中央駅近くの薬屋さんの一家における母親像にダブってきて仕方がない。同じ家族経営ではあっても、その規模と対外的影響力においては雲泥の差、月とスッポンの違いがあることはもちろんではあるが。

ところで多くの華人企業家の自伝や評伝を読み進むと、例外なく『論語』や『孟子』などの儒教古典の一節が“格言”のように引かれ、悪戦苦闘・刻苦勉励の末に辿り着いた「儒商(儒教を修めた高潔な商人)」として振る舞いを印象づけようとする“演出”が目に付き、鼻白む思いは否めない。だが『郭鶴年自傳』には、そういった色合いは余り感じられず、むしろ率直な主張には好感が持てるほどである。

なぜ成功した華人企業家は“儒商臭”を振り播こうとするのか。とうぜんのように、こんな疑問が湧く。そこで、またまた林語堂となるわけだが、彼は『中国=思想と文化』で中国人の生き方にとって重要な柱である儒教と道教を様々な観点から縦横に論じ、「成功したときに中国人はすべて儒家になり、失敗したときはすべて道家になる。儒家は我々の中にあって建設し、努力する。道家は傍観し、微笑している」と記す。

これに従えば、大成功したわけだから郭鶴年は『郭鶴年自傳』で儒商ぶりを大いに吹聴してもよさそうなものを、そうしない。彼はビジネスと儒教は全く別であり、孔孟の訓えなんぞは屁の役にも立たない、とでも考えているように思える。

ここらで郭鶴年を切り上げ、そろそろ鄭一族に戻らねばなるまい。

あれほどまでに隆盛を誇っていた一族に黄昏が訪れる。1980年代末期から始まったタイの高度経済成長、新興華人企業家の台頭、社会の既得権益層における権力構造の変動など様々な外的要因が考えられるが、敢えて鄭一族に絞ってみるなら、やはり母親である呉靄霞の不在、それに鄭午楼が一族の後継に指名した長男の鄭偉昌(ヴィチエン)の能力不足を挙げないわけにはいかない。

呉靄霞の不在は、「組織された経済単位」としての鄭一族が「家庭の組織者」を失ったことを意味する。たとえ家長として振る舞っていても、それは対外的な姿。一族の内側では、長男の力だけで6人の弟とその家族の統御は容易くはなかったようである。《QED》