【知道中国 2849回】                      二五・六・念一

  ――“もう一つの中国”への旅(旅101)

家族主義ときたら、やはりお馴染みの林語堂に耳を傾けておく必要もあろうから、『中国=文化と思想』(講談社学術文庫、1999年)から引用しつ、些かの寄り道をしたい。

林語堂は「家族制度は中国社会の根幹をなすものであり、中国のあらゆる社会的特徴はこの家族制度から発生している」と捉え、「面子、人情、特権、報恩、礼儀、官吏の汚職、公共制度、学校、ギルド、慈善事業、優待、正義、国家機構全体」にかかわるすべての「起源」は「家族制度」と、「家族制度」を拡大した「村落制度」にあり、「家族制度の影響は日常生活の隅々にまで及んでいる」と見なす。

そういった「家族制度の弊害」に関しては、遠い昔の「韓非子の時代(紀元前三世紀)にすでに明らかなものとなっていた。彼がその著者に描いた政治状況は現在の中国の政治状況をそのまま映し出しているように見える」と説き、こう続ける。

「閨閥関係といい、情実に囚われて不正を働くところといい、私腹を肥やすところといい、政治家が豪華絢爛たる別荘を建てるところといい、社会意識の欠如といい、官吏の贈賄受託などの罪をなんら問わぬところといい、公民意識の欠如といい、社会意識の欠如といい、現代中国の政治社会状況と何一つ変るところがないのである」

かくて「韓非子はこうした事情を一つ一つ明らかにし、唯一の救済手段は『法治』に基づく政治しかないことを主張したのであった」と結んだ。

どうやら「家族主義の弊害」は「『法治』に基づく政治にしかないこと」になるようだが、肝心の「『法治』に基づく政治」が真っ当に機能しない。つまり「人治」が牢固として止まないのも、煎じ詰めれば「家族主義の弊害」に行き着いてしまうだろう。

そこで思い浮かぶのは、1960年代半ばに尾藤イサオが喉を振り絞るようにして歌い上げ大ヒットさせた「悲しき願い」(原題「Don’t Let Me Be Misunderstood」)の一節――「・・・誰のせいでもありゃしない/みんなオイラが悪いのか・・・」――である。つまり「・・・誰のせいでもありゃしない、みんな家族制度が悪いのか・・・」であり、ならば習近平の強権も、共産党の独裁も、み~んな家族制度に因るわけか。ナルホド、そうか。

それはさておき、林語堂は家族制度について、つぎのように断言してみせる。

「家族はその友人とともに鉄壁を築き上げ、内に対しては最大限の互恵主義を発揮し、外の世界に対しては冷淡な態度を以て対応しているのである。その結果、家族は堅固な城壁に囲まれた砦となり、外の世界のものはすべて合法的な略奪物の対象となっている」

ここにみられる「堅固な城壁に囲まれた砦」は、あるいは「組織された経済的単位」の別の表現と考えても、強ち的外れでもあるまい。

「内に対しては最大限の互恵主義を発揮し、外の世界に対しては冷淡な態度を以て対応し」「外の世界のものはすべて合法的な略奪物の対象」と見なすからこそ、家族は「組織された経済的単位」として機能する――ここら辺りに、華人(漢族)商法の柱である家族経営のカラクリが潜んでいるとも考えられる。

それにしても、「人というものは自分や子孫の利益のためであればこそ骨身を惜しまない」とはいうものの、そのために「冷淡な態度を以て対応」されたうえに「すべて合法的な略奪物の対象」とされる「外の世界」は、正直言ってタマッタモンじゃない。こういった超自己チューな振る舞いには、敬(じつは軽)シテ遠ザケルが・・・やはり得策だろう。

閑話休題。

郭鶴年は「母は真の社会主義こそが社会の究極の目標であるべきだと考えていた」と語り、「人類は気の遠くなるような長い苦難を経て真の文明世界に到達する。いま、我われは長い道のりの初めの数歩を歩み出しただけだ」と、なにやらゴ託宣を垂れる。《QED》