――“もう一つの中国”への旅(旅100)
ここで郭鶴年が示した指摘に注意を向けたい。仲間を介して未知の人を知り、同時に他業種に進出する。こうして次々に拡大する《自己人(なかま)》のビジネス・ネットワークこそ、企業家にとっての財産となる。ならば中国企業との関係も、その一環だろう。こう考えれば、彼の商法の要諦は必然的にヒト=人脈=関係となるわけだ。
文化大革命勃発前年に当たる1965年、郭鶴年は初めて中国の土を踏んでいる。中国政府が広州で定期開催していた広州交易会に出席するためだ。交易会の合間に訪れた広州郊外の人民公社で粗末とはいえ心のこもった田舎料理を口にして、郭は「中国人は道徳的で生真面目であり、私はよそ者と思うことはなかった」と、故郷に戻ったような安堵感に包まれた・・・らしい。
文化大革命の間(1966年~76年)、毛沢東に率いられた中国は対外閉鎖を徹底した。
終わりなき激烈な政治運動に全国民が倦み疲れていた1970年代半ば、郭鶴年は2回目の訪中を果たした。当時の状況を「中国は激変していた。官僚主義は猖獗を極め、人々は猜疑心の塊だった。多くの幹部はビジネスの経験がなく、資本家は中国の富を掠め取りにやって来ている“悪魔”と思い込んでいた。経済発展の方法を知らないにもかかわらず、他人に任せようなどとは微塵も考えてもいなかった」と綴る。
毛沢東思想に狂奔してきた(あるいは「強いられてきた」)中国人にとって、「資本家」とは「中国の富を掠め取りにやって来ている“悪魔”」でしかなかったはずだ。
そこで彼は「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」を思い立つ。すると母親は「彼女世代の中国人の本質と考え方を知る」ゆえに、「成功したとしても、お前の成果は彼らによってスッカラカンにされてしまう」と諭す。理知的で客観的な母親は息子に、「中国が犯した罪、歴代の政府と指導者の弱点を徹底して解き明かしてくれた」。だが息子の各鶴年は「できることなら中国の発展を手助けしたい」との考えを捨てきれない。
やがて「幸いなことに中国に人材が輩出し」はじめる。その典型が鄧小平であった。
郭の母親は中華人民共和国建国を挟んだ数年間、マレーシアと中国の間を何回か往復し山東省に所有していた彼女名義の財産の処理に当たっていた。おそらく、共産党政権が進める土地改革によって所有地が没収される前に処分しておこうとしたに違いない。驚くばかりの行動力だが、財産管理に長けていたということだろう。共産党政権下の中国女性に対する「中国の女性には化粧より軍装が似合う」との毛沢東の表現をもじるなら、さしずめ「中国の女性には化粧よりソロバンが似合う」といったところだろうか。
郭鶴年は「振り返るなら、どのように経済建設を進めるべきかが判ってはいなかった。戦争の時代は英雄を必要とするが、戦争に勝利した後の政治の力点は経済建設と国民の日常生活向上に置かれるべきだ」と、毛沢東を捉える。大躍進政策失敗の悲惨な農村を知るだけに、母親は息子に向かって「毛沢東の罪過は功績を遥かに上回る」と教え諭した。
また彼女は、ことに文化大革命当時に農村住民に対して見せた許し難い横暴と凌辱を例に、農村幹部を徹底して糾弾した。彼女の目に映った文化大革命は、当時の日本で大いに讃えられた「魂の革命」などといったキレイごとではなかった。現実的には権力者とその取り巻きの横暴が罷り通っていた。文化大革命とは、そういうものでしかなかった。
ところで鄧小平を大いに評価する彼女は郭鶴年に向かって、「オマエの目玉が黒いうちに、中国は資本主義に回帰する。事実、その方向に向かって発展している。人というものは自分や子孫の利益のためであればこそ骨身を惜しまない。これからの中国は、こういった力が発揮され発展するだろう」と言い聞かせたとのことだ。つまり彼女の考えに従うなら、家族主義の伝統こそが中国経済発展の原動力になるらしいのだが。《QED》