【知道中国 2831回】                      二五・五・十

  ――“もう一つの中国”への旅(旅83)

この段階でフト気になったのが遺体の足許だった。絹製でピカピカと白く光る「襪(靴下)」に鶴の刺繍も鮮やかな絹製の「布底鞋(布靴)」である。どう考えても、この旅姿では、あの世までの長旅を、しかも自分の足で歩き通せるとはトテモ思えない。たとえ、それが架空の話であっても、である。

「末期の水」という表現に倣うなら、さながら「末期の白飯」とでもいえそうだが、腹の準備はできたとしても、頭の先の「皮帽(絹製の帽子)」から足の先の布底鞋まで。全身が何枚も重ねられた絹の豪華衣装で身支度されているわけだから、自分の足での長旅は余りにも無謀だ。たとえ絵空事の儀式であったにせよ。だとするなら、おそらくは「轎(輿)」に揺られての長閑な道中を想定しているに違いない。じつは出棺前には、紙で作られた豪華な轎、「轎夫(駕籠舁き人足)」、それに前方を照らす「轎工燈(提灯)」までもが用意されていた。じつに手回しのいいことだ。

ここで思い出したのが我が故郷(山梨県西部)での経験だ。納棺前の経帷子を纏った死者に白足袋を穿かせ、そのうえにワラジをシッカリと結わえてやる。これなら孤独な長旅を一人で歩く旅姿としては納得がいく。これまた、たとえ空想の物語であっても、である。

一方はメシで一方はワラジ、腹ごしらえに対するに足の備え。同じ旅支度とはいうものの、こうも違うものか。いったい、なにがキッカケでこのような違いが生じてしまったのか。不思議に思うと同時に、これは生きる形の違いにも及んでいる、いや生きることの意味合いの違いの素朴な反映ではないのか。こう妄想を逞しくせざるをえないのだが。

あの世への旅支度の一齣でもこうも違うわけだから、やはり口が裂けても「同文同種」などとはいえそうにない。いったい我が先人はドコを指し、「同文同種」などというタメにする“政治的呪文”を信奉し続けていたのか。はたして疑問を持たなかったとするなら、呆れ果てるばかり。やはり漢字が秘めた底なし沼のような“呪術性”を恨むしかない。

さて、メシ粒を捧げる儀式が終わると、全員が遺体の近くから離れる。すると馬氏宗親会の葬儀担当者が進み出て、メシ粒をキレイに拭い取り、改めて口元を整える。次に長男が遺体の口の中に直径が2cmほどの真珠を押し込んだ。これが「口寿珠」で、この瞬間に死者の口と目が閉じられ、来世での富貴と栄華が約束されるらしい。

一連の作業が終わると、あのバカでかい棺が「天」と呼ばれる蓋を外したままで運び込まれる。これからが「入斂(納棺)」の作業が始まるわけだ。因みに、棺は底面を「地」、両側面を「腸」、そして頭の側を「会頭」、反対の足の側を「会尾」と呼び分けている。

再び遺体の回りに集まった遺族が長男に倣って遺体に正対し、葬儀担当者の「一鞠躬、二鞠躬、三鞠躬」の掛け声に合わせ、3度、深々と腰を折り、恭しく頭を垂れて別れを告げる。これが終わると、遺族のうちの息子や孫たち男性が遺体の両側に立ち遺体を持ち上げるのだが、これは形だけ。彼らの脇に控えていた宗親会の係員によって遺体が持ち上げられ、棺に納められる。

この時、予め棺の底に大量の茶葉や乾燥した菊の花びらが10cm程の厚さでギッシリと敷き詰められ、その上に「玉扣紙」と呼ぶ薄茶色の大きな紙が敷かれている。茶葉や菊の花びらの他に、炭を使う場合もある。茶葉、菊の花びら、炭はすべて棺の中の乾燥を保つためである。

玉扣紙が敷かれた棺内部の会頭の側には「頭枕(枕)」が、会尾の側には山の字の形の「脚枕(足枕)」が据えられていて、頭枕のU字に湾曲した部分に後頭部が、脚枕の山の字の形をした部分に2つの足首が差し挟まれ、それぞれでキッチリと固定される。枕は双方共に真紅の絹地で包まれ、ここにも長寿を表す刺繍が施されていた。《QED》