【知道中国 2830回】                      二五・五・初七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅82)

これから死者の生まれ故郷である潮州から持ち来たった潮州における葬儀方式に従って納棺から埋葬までが執り行われるわけだが、これは潮州の「望族(名望家)」の葬儀の形を踏襲したものと考えられる。

苦労の末に異土で大成功を収めた者にとって、やはり故郷で羨望の眼差しで眺めたであろう煌びやかで超豪華で壮大で周辺を威圧するような望族の葬儀で父や母を送ることは、おそらくは至高の親孝行であり、同時に自らの成功を周囲に見せつける意図も窺える。

それにしても筆者は、なぜ、ここまで執拗に葬儀に興味を持つに至ったのか。

改めて考えてみるに、たしかに我ながら呆れもする。山っ気に唆されたコワイモノ見たさであり、あるいは野次馬根性の発露といってしまえばそれまでだろう。だが少しくマジメに考えてみるなら、「死」の受け止め方は「生」への取り組み方に、「死者」の送り方は「生きる者」の日々の振る舞いに直結している。やはり葬儀は儀式には違いないが、たんなる儀式を越え、そこには彼らの死生観が潜んでいる。文字に託された高尚で難解な哲学的言辞で表現された死生観とは違う、市井に生きる人々が先祖から受け継いできた素朴な死生観が必ずや潜んでいる――こう考えてみるのだが。

「死」について問われた孔子は、たしか「依然として『生』が判らないんだから、『死』なんぞ判るわけがない」といった風に応じたと記憶する。こう、孔子に突放されてしまったからだろう。その昔、漢族は「あの世」もこの世と同じ仕組みではないのか、と思い至ったに違いない。

あの世の仕組みは、この世と同じ。この世が至高の権力者である皇帝の絶対支配の下に置かれているに似て、あの世も絶対権力者である「玉皇」を頂点とする官僚機構が統治している。地獄の沙汰もカネ次第ではないが、「閻魔大王」が「行長(頭取)」を務める「天堂地府銀行」(時に「冥都銀行」「冥通銀行」)と呼ばれる中央銀行が存在し、同行が発行する紙幣(「HELL BANK NOTE」)は「天堂地府一律通用」、つまりこの世を上下から挟む形の「天堂(天国)」と「地府(冥府=あの世)」の両方で「一律通用」されるわけだ。

天堂やら地府でも紙幣が通用しているからには、この世でそうであるように、おそらく天堂やら地府でも役人がハバを利かせ、利に敏く、不正が横行し、それが「老百姓(人民)」の日々を苦しめているに違いない。ならば、やがて天堂や地府でも革命が想定されたとしても、決して不思議ではないはず・・・まさか中国共産党天堂地府支部なんて。

あれやこれやの妄想は小休止とし、葬儀の先を急ぎたい。

一旦遺族も脇に退き仕切りの衝立が取り払われると、入れ替わりに馬氏宗親総会の葬儀担当係6人ほどが遺体を囲む。先達と思われる1人が頭部の左側に小机を置く。そこには炊きたての真っ白な白飯を盛った茶碗と草の穂が入った水の容器が置かれる。

先ず長男が遺体の左脇に立ち、死者に頭を垂れる。次に目の前の机から茶碗と箸を取り、死者の口に数粒の白飯を捧げる。次いで水の容器に持ち替え、今度は水を含ませた草の穂で唇辺りを2、3回撫でる。あの世への道中での腹ごしらえといった意味だろうか。彼女には息子は1人だけだから、次は第二夫人の息子の番で、長男、次男の順で同じ動作を繰り返す。男子の遺族が終わると次は女性になり、2人の娘に次いで第二夫人の娘になる。息子・娘が終わると、次は孫になり、最後は身の回りの世話をしていた60歳ほどのおばさんだった。

全員で15人ほどだったと記憶する。1人数粒でも全員ではそれ相応の数になるから、死者の口の回りはメシ粒だらけ。厳粛な雰囲気が漂うなかで、この姿である。咄嗟に頭の中に滑稽の2文字が思い浮かんだが、はたして死者に対する冒瀆だろうか。《QED》