――“もう一つの中国”への旅(旅78)
李さんは「日本語のできない廖さんから助っ人を頼まれまして」と話してくれたが、案ずるより産むが易し。廖さんとは中国語で問題ナシ。留学生の母親である廖夫人は専らタイ語だったが、コチラの話す中国語は聞き取ってくれたので一安心、といったところ。
廖さんには数々のお世話になったが、最も印象に残っているのがカネにまつわる話だ。
最初の赴任から程なくして、担当部署の事務的な手違いから諸手当が大幅に遅れると伝えられた時には、さすがにコマッタ。家賃は払えないし、生活費もままならないわけだから、どうにも心細い限り。そこで当たって砕けろ、である。日本の大学を卒業して帰国していた教え子に相談すると、「じゃあ、オヤジに頼んでみます」。その翌日早々、彼から「オヤジは了解しているが、一応、先生の方から話だけでも」と。
その日の夕刻、仕事を早めに切り上げ薬屋さんに。相変わらず店先はごった返していたので、客が途切れた合間を見計らって廖さんの前に進み出て頭を下げる。すると、「息子が日本で大変お世話になり、ご家族共々で親身になってお付き合い願ったわけですから《自己人(ナカマ)》です。家内も了解していますので、無利息・無担保で返済時期は問いません。必要な金額を遠慮なく申し出て下さい。当分の必要額程度は用意しておきましたから」と即答である。
彼を教えていた当時、時に家に呼んだり、時に新宿西口やら武蔵境辺りの居酒屋で飲む程度だったから、「お世話」などといわれると面映ゆい限り。赤の他人、それも日本人であるにも拘わらず、《自己人》と快く迎え、無利息・無担保・無期限で、しかも借用証書なしで少なくはない金額を即座に用立てようというのだから、驚くほかはない。やはりヒトであり信用というモノだろうか。
ここで少し考えてみたい。
古今の華僑・華人企業家の人生を追い掛けて共通して気づかされる共通項の1つが「風険投資」の漢字4文字で表現されるビジネス手法だが、当方の身勝手極まりない金銭借用願いを前にしての廖さんの対応も、あるいは形を変えた風険投資のような気もした。これに《自己人》の3文字が加わる。李さんとはまた違った華人の生き方というものだろう。
風険投資をソンしてトク取れ、《自己人》をナカマと即断し日本式に判ったつもりでいると、そのうちにトンデモナいしっぺ返しを受け、ドンデン返しを喰らうのでは。この辺りの呼吸が、どうも日本人には、いつまでたっても呑み込めないような気がしてならない。
遠い昔、「君子は和して同ぜず、小人、同して和せず」の文字が海を越えて我が国に伝えられた。我が先人は、それを、そのまま、お人好しにも頭から信じ込んでしまった。だが、長い日中の交わりへの我が官民の取り組み具合を振り返って考えるに、どうやら「和」や「同」に対する彼我の感覚に微妙な、いや有り体にいうなら確実にズレがあった。だが、そのズレに我が先人は気づかず、時に軽視し、時に無視して過ごしてきた。その辺りの過誤を、反省を込めて自覚的に真剣に問い詰めることなくノー天気に過ごしてきてしまったことが、現在の日中関係に“悪い意味”で結実しまっていると痛感するのだ。
「一衣帯水」「同文同種」といったデタラメ極まりない4文字熟語からはじまり、我が国支援者からの物心両面に亘る気の遠くなるような援助を受けながら最終的には「容共連ソ」に向かってしまった孫文、「同生共死」の汪精衛、「以徳報怨」の蔣介石、「アメリカ帝国主義は日中共同の敵」の毛沢東を経て現在の習近平に至るまで、いまこそ「和」と「同」の彼我の意味の違いを考え直すべきであり、その時期に立ち至っているはずだ。
些末で私的な借金話から飛躍が過ぎたようだが、職場上司の計らいで廖さんの世話になることもなく済んだ。ところで廖さんで忘れられないのは、その死の形だった。《QED》