【知道中国 2824回】                      二五・四・念一

  ――“もう一つの中国”への旅(旅76)

当時、王室と国軍を背景に極めて安定した権力基盤に立っていた政権に対し舌鋒鋭く逼るアジ演説は、有権者を大いに煽ったものだ。その後、“苦節”の20余年を経た2008年に政権の座に就いたが、道楽が昂じてTVの料理番組にレギュラー出演していた点を憲法裁判所が「憲法違反」と判断したことから、10カ月ほどの超短命政権に終わってしまう。

その日は彼の誕生祝賀パーティーだったわけだ。「日本の若者、遠慮はいらないゾ!」との声を背に庭に出て、タイの政治家と支持者の関係の一端を体感させてもらった。

帰路、「どんな関係ですか」と尋ねたが、李さんからは「私はへそ曲がりで、野党贔屓の性分ですから」と返ってきただけだった。

李さんに最も頻繁に会って昔話を聞いていた1984年~85年当時、オモチャ会社の取締役顧問として悠々自適の日々だった。アルコールに目がなく、酒の肴に一家言を持っていた李さんに連れられ、ヤワラートの路地の奥の小さな店で“優雅な一刻”を過ごすことも数知れず。そのなかで今でも忘れられないのが、ヤワラートのランドマークでもある天外天戯院に向かって右の路地(天外天街)に入って左手にあった小さな潮州料理屋だった。

店の名前は忘れてしまったが、李さんが必ず注文した料理がマッチ棒のように細く切った大根、ニンジン、キュウリ、キャベツなどを大きな皿にザックリと大盛りにして、その回りに石首魚の薄い切り身が並ぶ。石首魚の切り身で野菜を包み込み、醤油に砕いたピーナッツと辣醤を混ぜたタレにチョッと付けて口に運ぶ。これが紹興酒にピッタリの味。毎度ながら小さな甕入りの花雕は、さほどの時間がかからずにカラとなった。

折に触れ、異国であるタイで、タイ国民として生きる心境を尋ねた。そんな時、李さんは山あり谷ありで紆余曲折の半生を振り返りながら、

「私の場合、台湾籍で上海生まれ。子どもの頃は上海、台湾、それに福州。後にシンガポール、マレー半島各地を経て家庭を築いたのがタイ。友人は各国各民族。日常使うのはタイ語ですが、中国語に上海語や台湾語も。それに英語にドイツ語に日本語。タイに40年も住んでいますが広東語しか話せない家内とは、もちろん広東語です。教育を受けたアメリカで医者をしている息子とは、やはり中国語やタイ語より英語がシックリきますね。

こうなると自分でも、いったい、どこの国の人間なのか。極端にいうならダブル・アイデンティー程度で悩んでいる人が可笑しいくらいです。失礼とは思いますが・・・それでも私の考え方は、敢えて国粋主義的と言い表すのがピッタリしているようです」

李さんの話は続く。

 「祖国もハッキリしないのに国粋主義だなんて、なんだか自己矛盾のようですが、どう考えてみても、そうとしかいいようがないからコマッタものです。

 商売でなんとか大きく当てて、自分の体に棲んでしまった珍妙な国粋主義を自分なりに満足させよう。こんなことを思い立ったからイケないわけです。やはりモチはモチ屋といったところがよさそうです。

 国粋主義に利得主義――2つは必ず結びつくはずだ。いや結びつけてやる。結びつけねばなるまい。こんな妄想気味の使命感が私の商売を邪魔したんではないか。いまにして、こう振り返り反省するばかりですが・・・」

 当時のメモには1984年7月と記されているが、李さんの回想を記録に残しておこうと思い立ち、カセット・レコーダー持参で李さん宅に向かったことがある。あらかじめ約束しておいたからだろう。すでにテーブルにはタイ産のブランデー「リージェンシー」が2本と李さん手作りのツマミが。もちろん、すでにゴ本人は些か聞こし召していた。

 「どういうわけか、私のノドにはコイツはいちばんピッタリきましてね」《QED》