【知道中国 2823回】                      二五・四・仲九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅75)

 当時は1カ月250ドルもあれば優雅な生活ができたというから、李さんは藤邦物産社長の恩情で再起できたはず。事実、営業開始から8カ月ほどは順調に売り上げを伸ばしたものの、手強い商売相手が李さんの前に現れてしまった。

またまた好事魔多し。間の悪いことにインドから値の安いスチール・バーが輸入さるようになったばかりか、台湾出身の蔡錦松(サムニ・ウィッサワポン)が創業したG・Sスチールが、本格的に動き出した。その後、同社はタイのトップ企業へ成長を遂げた。

「たしか蔡さんは台湾総督府から派遣された第1期か2期の高等実習生だったはずです。台湾総督府が育て上げたような彼がスチール・バーに進出したわけですから、素人同然の私が敵うはずもなく、完全にお手上げです。それでも藤邦物産社長が用意してくれた500トンの枠を投げ出すわけにはいきません。なんとか売り捌きはしましたが、やはり収支はトントン。赤字を出さなかっただけでもヨシとしなければ」

1965年、李さんの後ろ盾だった藤邦物産が倒産してしまったことから、自動的に藤邦物産タイ代表の肩書きは消えてしまう。だが世の中は捨てる神あれば拾う神あり、である。藤邦物産の倒産を見越していた勘のいい友人が、日本の大手商社系石油会社を通じ潤滑油のタイ国内での販売権を用意していてくれたそうだ。かくて藤邦物産倒産と同時に潤滑油販売をはじめるのだが、それと前後して友人の子ども達が共同ではじめたオモチャ会社の顧問も務めることとなった。

潤滑油会社はオイル・ショックに貯蔵所の火災が重なったことから事業閉鎖となったが、経済発展によって庶民生活に余裕がでてきたことからオモチャ需要が順調に伸び、オモチャ会社の経営も軌道に乗って業績を拡大させた。当初は日本からの輸入が主だったが、やがてパテント取得による生産にまで躍進し、1980年代後半にはタイ最大のオモチャ・メーカー兼販売会社へと発展。1985年9月のプラザ合意を機に日本資本のタイへの集中豪雨的進出によって促された高度経済成長の波に乗って、デパート・チェーン経営にまで手を広げることになる。

オモチャ会社創業当時の苦労を尋ねると、

「たしか東京でオリンピックが開かれた年ですから1964年ですか、友人の子どもの中で販売担当の次男坊を連れて東京へ行って、前後2カ月ほど浅草界隈を中心にオモチャ屋というオモチャ屋をシラミ潰しに回ったんです。

こっちは2人とも全くの素人なもんで、今では技術提携するほどに緊密に連携している大手メーカーなんぞも文字通りケンもホロロ。当たり前といえば当たり前でしょうが、サンプルなんぞはもっての外、といった酷い扱いでした。

なかには、こちらの足下を見透かすかのようにアッサリと門前払いを喰わせてくれた大手メーカーもありましたが、こっちの隆盛ぶりを見て今ではホゾを噛んでいることだと思いますよ。全体に日本の企業文化は短兵急に過ぎるのに、それでいて瞬時の経営判断が下せない。日本軍通訳から始まって現在まで、日本の組織との付き合いは半世紀ほどになりますが、いまいった傾向は一向に変らない。いや、正確にいうなら変ろうとはしない。直そうともしない、ってとこでしょうか」

ある日の夕刻、「今日は面白い人に合わせましょうか」という李さんの車でバンコクの郊外へ。広い庭には煌々と灯が点り、大宴会が開かれていた。李さんは会場に向かわず、勝手知ったるなんとやら、といった雰囲気だった。ズンズンと進んで廊下の突き当たりのドアーを無遠慮に開ける。そんな李さんの後からソロソロと応接間に入っていくと、そこにいたのは、自由奔放な発言で連日新聞紙上を賑わせている野党指導者だった。《QED》