【知道中国 2822回】                      二五・四・仲七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅74)

親友が経営する藤邦物産本社を間に立てて大手造船会社と話を詰めたものの、藤邦系列の子会社に“仁義”を通さなかったことが躓きのはじめ。メンツを潰されたとイキリ立った子会社は同社のバンコク支店に猛烈な圧力を掛ける。その結果、最終的に李さんや藤邦物産本社を出し抜いた形でタイ政府に直接掛け合って強引に商談を進めた。

「これで私も短気ですから、商売の上でのゴタゴタは大嫌い。もう、どうにでもなれ」とやる気が失せた李さんに、さらに追い打ちが掛かった。最も信頼していたヤワラートの親友に寝返られてしまったというのだ。

その人物はバンコクに腰を据えて一貫して李さんの代理を務めていた。ところが李さんが日本に出掛けた不在中に、会社代表として振る舞い、秘密裏に独断で商談を進め、一切の契約を結んでしまったばかりか、利益の独占まで画策していたのである。

最終的には大手造船会社や系列商社との間の誤解も解消され、タイ政府との間で530万ドルの商談は成立した。とはいえ李さんは1ドルすら手にすることはできなかった。一段落して周囲を見回すと、かの裏切り者は“濡れ手に粟”の莫大なドルを持って世界周遊の旅に。手許に残ったのは、商談のために使った借金の山。

当時、隆盛を誇っていた華人系の京華(メトロポリタン)銀行に預けてあった嶺南薬房やタイ・ヤマト・シネマ・カンパニーでのわずかな儲けなんぞでは借金の穴は埋まるべくもなく。かくて「詐欺罪でパクられてしまいまして、とどのつまりは1年半ほど刑務所の臭いメシを食べる羽目に・・・。マヌケが過ぎましたね」と、李さんは苦笑い。

ここで李さんは古くからの「大奸は忠に似たり」との箴言を口にした。「大奸(はらぐろいヤツ)」であればあるほどに忠義ズラをして近づく、というわけだ。「判ってはいたつもりですが、まさか自分が被害者を演ずるとは・・・」と苦々しく口にした後、「こういう自分本位の信義に悖る、己の利益のために仲間を裏切っても恥じないような行ない、アコギな手段を使っても屁とも思わないで仲間を追い落とそうといった“生活のチエ”は、数千年の歴史を誇る我が中華文化の根幹に巣くった“負の遺産”とでもいうんでしょうか。いったい、いつになったら、こういう悪癖に対する民族的な自省・自責の念が起こるのやら。じつに恥ずかしい限りです」

李さんの記憶では1959年末か60年の初め頃に逮捕され、刑期満了で出所するや直ちに日本側関係者に手紙を書き、商談の経緯や事実関係に関する詳細な記録を記して弁明に努めた。ことにカウンター・パートの藤邦物産に対しては、無一文になったうえに社会的信用も失墜し、将来の見込みは立ちそうにない旨を正直に伝えることにした。

すると藤邦物産社長から「来日して年末・年始をユックリして過ごさないか」の手紙と共に、現金1,000ドルに加えJALの往復ファースト・クラスの航空券が送られてきた。社長の厚意を有り難く受けることにした李さんは、1961年12月中旬に日本に向かう。

日本では藤邦物産社長をはじめ関係者には商談の経緯を正直に説明し、誤解を解いてもらおうと努めた。その結果、同社長の口利きもあり、関係者の誤解を解くことができた。その結果だろうか。タイに戻った李さんを追い掛けるように特別ボーナスとして300万円、加えるに工作資金や交際費の穴埋めとして250万円が送金されてきた。

「そんなこと思いもつきませんでしたから、嬉しくて、嬉しくて・・・干天の慈雨とは、こういうことを指すんでしょう」。「そのうえに、たぶん当分は仕事のアテもないだろうから」と、藤邦物産社長がマルボー、つまりスチール・バーの販売権を用意してくれたのだ。

李さんには1カ月当たり500トンが割り当てられ、営業努力をしなくても1トン当たり1ドルが自動的に李さんの懐に入る計算だった。こんなにオイシイ話はない。《QED》