――“もう一つの中国”への旅(旅73)
李さんは続ける。
「我われ華僑・華人からしたら戦時中の苦い思い出が消せるわけがない。日本に協力するインド人は不倶戴天の敵だった。戦後になると『非国民』と糾弾されてしまうチャンドラ・ボースですし、印僑だったら口にするも耳にするも汚らわしいほどの売国奴なんです。結局、タイ人も華僑・華人も印僑も、つまりタイの観客の誰もが見向きもしないわけですから、不入りは当たり前。お客さんにコチラの好みを押しつけてはイケませんね」
1950年代末の数年間、李さんは東映と新東宝から30本ほどの映画作品を買い付け輸入した。だがタイ・ヤマト・シネマ・カンパニーは2年目に入ると無配当に転じ、フィルムを抱えたまま事実上の倒産。敢えなく討ち死に、となる。
それでも屋外での映画放映で日銭を稼ぐ業者などからの求めに応じ、映画を貸し出してもいた。そんな映画にまつわる“赤っ恥”を、李さんは懐かし気に話してくれた。
「いつでしたか、カンボジア国境近くに鹿撃ちに行ったんですが。そしたら縁日で映画をやっていた。なんとはなしに見たんですが、なんと私が買い付けた新東宝の映画(シャシン)でした。
スクリーンは雨が降っているなんて生易しいものではなく、豪雨状態でしたね。フィルムの耐久度を超えて上映を重ねたことでフィルムが劣化し映像は擦り切れ、スクリーンにまともな画面を映し出せないわけです。ここまで、どんな興行主の手を経てやってきたのか。これから、このフィルムはどんな運命を辿ることになるのか。こんなことを考え、なんだか急に懐かしさがこみ上げてきましが、あの豪雨のスクリーンを目にしたら、気恥ずかしさがこみ上げてきて・・・。その場を、そそくさと離れましたよ」
鹿撃ちで思い出すのが、李さんのガン・コレクションだ。バンコクからチャオピヤ川を渡って西に延びる国道を20分ほど進んで左折した辺りの住宅街にある李さん宅を最初に訪れた時に見せられたのが、居間の奥にある武器庫だった。中に入れてもらってビックリしたのは、鹿撃ち銃を含んだ数丁の猟銃に加え、ライフル数丁、それに銃身が長くズッシリと重かった拳銃も数丁。いつでも使えるよう、どれもがピカピカに手入れされていた。
一般人のレベルを遙かに超えた武器庫の“充実ぶり”にビックリしていると、「この国では、いつ、誰に襲われるか判らない。自分で自分を守るための最低限の備え」と、李さんはさりげなく応えてくれた。とするなら、はたして鹿撃ちは趣味と実益を兼ね、強盗に立ち向かうための日常訓練の一環。そこでお願いして何回か同道させてもらったわけだ。
映画配給会社の経営など携わっていると、異業種との接触が重なる。なかには政府関係者もいた。そんな人脈から1960年前後にタイ政府による貨物船購入の動きを察知する。
自分でシナリオを書き、プロデューサーとなって売れそうにない映画制作で日を送っているよりは、貨物船購入に一枚噛んでヒトヤマ当ててやれ、である。李さんは「乾坤一擲の勝負に打って出たんですよ」と、キッパリと口にした。
映画関係の仕事をキレイさっぱりと片付けた李さんが先ず狙いを付けたのが、陸軍輸送部隊司令官を兼任していたポーン・ブンヤカーン中将で、同中将を落とすと、次へ。また、その次へ。最後に最難関が控えていた。それが「鉄血宰相」と呼ばれ、全国民にとっての讃仰と畏怖の的であり、独裁権力を恣にしていたサリット・タナラット元帥だった。
さすがに「サリット工作」は難渋を極めたが、最終段階で日本の親友を通じて手にした某大手造船会社の見積書を提示し、同元帥から原則的了承を取り付けることに成功する
。「ここまで来れば商談成功は確約されたようもの・・・だった」と李さん。だが好事魔多し。最後の最後の段階で、どうやら水は上手の手から漏れてしまったらしい。《QED》