知道中国 1061回】                       一四・四・初七

――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野4)

「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 

中野は「そんなものではない」と断言し、岩波新書『中国現代史』が「一部の幹部の誤った作風をなおす目的を果たしただけでなく、社会主義改造達成後の中国に、溌溂とした政治的旋風をまきおこし、中国の人民をいちだんと奮いたたせたのである」と高く評価した反右派闘争ではあるが、再三言及しているように、実態は毛沢東=共産党にとって不都合な、つまり不必要な存在であった知識人を社会から追放するための策謀でしかなかった。

 

後日談だと言ってしまえばそれまでだろうが、敢えて中国の知識人たちの反右派闘争評をいくつか示しておきたい。それというのも、中野にしろ『中国現代史』の著者にしろ、中国側の粉飾・偽装工作にまんまと乗せられ、ウソ・デタラメを信じ込み(信じ込まされ)、それを、さも真実のように日本国内に撒き散らした罪を明らかにしておきたいからだ。

 

たとえば楊寛は、「年若い学生は、愛国の熱情に溢れるあまり、気負い立って改革の意見をだし、かえって上層から反党反社会主義的とみなされ、弾圧を受けることになってしまったのである。順調にいけば傑出した人材になるはずであった多くの優秀な学生が、この運動に押しつぶされて埋もれて行く例を、我々はこの目でみてきた。また、各地の有名な大学で大勢の教授が右派にされただけでなく、年若い教師たちも右派のレッテルを貼られ、二度と立ち上がれなかった者も少なくない」(前掲『歴史激流 楊寛自伝』)

 

また89年の天安門事件における民主派指導者の王丹は「『反右派』運動は、中国の知識分子階層のなかのエリートを、ほとんど一網打尽にした。〔中略〕政治に参与し議論する知識分子の気風は、ここにいたってすっかり断たれてしまった。〔中略〕知識分子階層もまた一つのグループを形づくることをやめ、精神的に潰滅させられたに等しかった」(前掲『中華人民共和国史十五講』)

 

さらに共産党古参党員で毛沢東の秘書を務め、現在は党と国の民主化に執念を燃やし言論活動を続ける李鋭は、「一九五七年におこった反右派闘争は、知識分子を粛清する運動で、民主党派、とくに民主同盟(その中の多数派知識分子)を粛清する運動でもあった」(前掲『中国民主改革派の主張』)

 

――人生、職業、社会的影響力、政治的立場、思想傾向など三者三様に異なるが、反右派闘争は毛沢東=共産党が強力な独裁体制を布くために仕掛けたという点では一致している。つまり反右派闘争は「一部の幹部の誤った作風をなおす目的」で発動されたわけでも、「社会主義改造達成後の中国に、溌溂とした政治的旋風をまきおこし」たわけでも、ましてや「中国の人民をいちだんと奮いたたせた」ものでもない。

 

その実態は、毛沢東を頂点とする「一部の幹部の誤った作風を」野放図に拡大再生産させ、「社会主義改造達成後の中国に」陰鬱で危険極まりない「政治的旋風をまきおこし」、「中国の人民をいちだんと」意気消沈させ、毛沢東=共産党に刃向うことなく、権力に従順な群集に仕立て上げようとしたわけだ。この鄧小平を最高責任者とする大中国人改造計画が成功したがゆえに、その後の毛沢東の暴政が止めどもなく続いたのである。

 

確かに中野や『中国現代史』の著者は外国人である。だから、中国にとって不都合なことは隠そうと思えば隠し遂せただろう。だが苟も中野が文学者の看板を掲げているなら、見えないところから当時の中国の民心の変調を読み取るべきだった。にもかかわらず中野は反右派闘争は「そんなものではない」と説き、同行した山本が帰国後に「(中国では)目立つ着物を着ていると、生活的に右派分子だといって、たたかれる恐れがある」と記すと、それは中国に対する「いらぬ嫌悪感、いらぬ恐怖心を、わざわざ日本人読者にあたえること」になるとまで言い切る。やはり中野も中国側の対日工作の道具でしかなかった。《QED》