【知道中国 2804回】 二五・三・初三
――“もう一つの中国”への旅(旅56)
本堂に並べられた椅子の最前列で両手を合わせていたのは、中華総商会以下の主要華人団体の指導者たち。会場での共通語は潮州語、タイ語、そして華語(中国語)だった。
やがて仁得上師の読経が終わる。全国の華人団体から献花され会場全体を飾っていた弔花を手に、一同は中国大使館へ。タイ警察当局の厳重な警戒体制下に置かれた大使館に到着するや、堅く閉ざされた正門の鉄扉の隙間に次々と花を挿し、そして立ち去る。大使館を囲む高い塀には、数日来の抗議デモの参加者が殴り書きした「血債血償(血は血で償え)!」の4文字が消されないまま、何カ所にも残されていた。
改めて報恩寺の本堂の壁に掛けられた挽聯の文字を記しておきたい。
「花、正に開かんとする時、急雨に遭い、月、明処に当(む)かわんとするに、烏雲(くろくも)に覆(かく)さる」
やっとマトモで豊かな社会がやってこようとしたのに突然に異常事態が起きてしまい、明るい未来は台無しになってしまった。月が雲間から顔を出し光りを放とうとした刹那、真っ黒い雲に覆われ煌々たる光りは掻き消されてしまった――対外開放に寄せた期待が裏切られた虚しさを滲ませた挽聯は、急進的行動に奔った若者に心を寄せているようでもあり、若者を力で押さえつけた保守派を糾弾しているようでもあり。「急雨」「烏雲」とは、なんとも巧妙な喩えではある。
ともあれ挽聯に現われたイデオロギー色を消し去った慎重な表現ぶりから、天安門事件に対する、やや深読みするなら共産党独裁政権に対する華人の微妙な心情が窺えるようだ。やはり若者に同情を寄せる一方で、現政権を掌握している保守派を表立って難詰するわけにもいかない、といったところではなかろうか。
後年、事件の推移と同時並行的に放送されたNHKの解説番組(DVD)を何本か見る機会があった。そのなかで特に気になったのが、コメンテーターを務めていた高名な現代中国専門家が「明日にでも鄧小平ら頑迷な保守派が敗れ去り、趙紫陽を先頭にした民主派の手で共産党の独裁体質は改められ、民主的な中国が誕生する」と興奮気味に語っていたシーンである。
冷静になって、いや常識的考えれば、“民主的な共産党”など妄想であり、蜃気楼に過ぎない。どだいムリな話だ。上意下達を統治の根本とする共産党が民主的に振る舞うわけがないだろう。民主的に振る舞ったら、共産党ではなくなってしまうではないか。
そんな共産党政権を相手にどのように振る舞ったらいいのか。その辺りの機微を、事件を民主派VS保守派で“機械的”に解釈し、前者を善、後者を悪と強引に色分けして自己満足状態に閉塞して恬として恥じない日本メディアの“悪癖”やら“雑音”に煩わされることなく、保守派(鄧小平指導部)VS民主派(学生・知識人)の権力闘争の変化に対応しているかのように見方を変え立場を移す――敢えて「無原則の大原則」に貫かれた――華人社会の真っ只中に在って、その複雑・微妙な反応に直接的に肌感覚で接する機会は、望んでも得られないほどに貴重であったと、いま振り返ってみても、その僥倖に感謝するばかりである。あの貴重な機会を与えてくれた全ての関係者に、改めて感謝しておきたい。
さて、事件後の華人社会の動きに戻る。
8月中旬、『新中原報』で保守派支持・若者批判の筆を揮った編集長が北京を訪問する。彼女は天安門広場に出動した戒厳部隊指揮官や若者の指導者など多方面に取材し、それらを基に書き上げた調査報道「『六・四』事件探訪記」を、8月下旬より半月ほどに亘って同紙に連載している。だが、それまでの主張を補強するものの、前言を翻すような雰囲気は微塵も読み取れない。大混乱の元凶は、やはり急進的な若者だった。《QED》